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生池城…倭寇の居城

16世紀中頃、中国沿岸部を襲った海賊倭寇のお城跡が壱岐にあります。(いわゆる後期倭寇ですな)


生池城。大将は源壹(みなもとのいち)。


壱岐・対馬・松浦は海賊倭寇で有名ですもんね。ゴム人間もなんのその。


城の周辺はお濠で囲まれています。


いやあ、生池周辺は古墳があったり、カッパ伝説があったりと、散策にベストですよ。


ぜひぜひ。


26聖人殉教2〜26人の1人ヨハネ五島〜

1597年、豊臣秀吉の命令により、長崎西坂で26人の宣教師とキリスト教徒が処刑されました。この事件を「26聖人殉教」事件といいます。

この26人のうち1人が五島出身者であること、ご存知でしたか?

彼の名はヨハネ五島。彼を記念している教会が五島にあります。

その教会とは堂崎教会。1908年に、ペルー神父によって建てられました。
 

レンガの一部はイタリアから持ってこられたものらしいです。ゴシック様式の美しい教会です。

もともとはこの場所には、1879年にマルマン神父が建てた小聖堂がありました。その場所にペルー神父が現在の教会を建てたんですね。↓(教会にある銅像。左がマルマン、右がペルー)

「どうもペルーです」

そしてこの堂崎教会、「日本26聖人殉教者聖堂」という別名があります。26人のうちの1人ヨハネ五島を記念して命名されたんですね。

教会の前に、ヨハネ五島の壮烈な最後を表した銅像が建っています。


堂崎教会は、五島のキリスト教布教の中心地でした。非常に重要な場所だったんですね。

五島にキリスト教信者はたくさんいたんですけど、1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令、1612年・1613年に徳川家康が出した禁教令など、キリスト教の取り締まりが次第に厳しくなり、五島にいた信者は相当の弾圧を受けていきます。

しかし、1797年から大村藩の外海地方にいた信者が五島に移住をはじめて、信者は増大します。信者たちは仏教徒であるフリをしながら、必死に信仰を続けるんですね。隠れキリシタン

江戸幕府がつぶれ、明治に入って1873年、ようやく政府はキリスト教の禁止をときます。やっと信仰する自由が認めらたんですね。

五島にはこの堂崎教会の他にも、たくさんの教会があります。現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、世界遺産登録に向けて取り組みがなされています。みなさんも1度キリスト教の文化に触れてみてはいかがでしょうか。

教会の近くには、おっ。白さが映えてます!何!?


はい、マリア像(**)☆

このマリア像へ進む階段は、平成19年につくられました(^^)


26聖人殉教地   長崎市西坂
堂崎教会  五島市奥浦町







ルイス=フロイス〜ノブナガサマハコエガタカイネ〜

「楽市楽座」というゲームセンターがある。

ちょっと昔織田信長がこのゲームセンターのCMに出ていた。

織田信長って、役者が信長になって出てるんじゃないですよ。一般的によく見る織田信長の肖像画。著作権の関係でここには載せられませんが、あの肖像画をCG加工して出演させていたんです。

信長は扇子をもって踊りながら、「ら〜く〜いち〜らくざっ!」って叫ぶ。(幸若舞のパロディか?)

ゲームセンターの名前「楽市楽座」は、織田信長がおこなった政策の「楽市・楽座」をもちろんさしているのでしょう。当時は販売を独占する権利を得た「、という組織がありました。販売の独占権というのは、例えば、ある場所では油を売ることは1つの会社だけに認められていて、それ以外の会社は油は売っちゃいけません!っていうことです。他の会社にとっちゃいい迷惑ですよね。

信長は自分の領地でその「座」を認めない法令を出しました。自由に商売をおこなっていいですよ、と認めたんですね。

で、このことも大事なんですけど、もう1つ。

このCGの信長、「ら〜く〜いち〜らくざっ!」って叫ぶ。この声、やたら高い声だったんです。

だからなんやねん。うん、実はね。

信長は高い声だった。という当時信長に会っていた人の記録があるんです。

「はなはだ声が高く彼が誰かを呼べば部屋の外で百名もの家臣が一斉に返事する」という記録がある。この記録を書いたのが、ポルトガル人宣教師、ルイス=フロイス。彼は信長と秀吉に仕え、実に詳しく彼らのことを書いています。

例えば信長については、「三十七歳長身やせ型で、ひげはほとんどありません。〜正義や慈悲を重んじ、尊大で名誉欲が強いです。〜規律や家臣の進言にはわずかか、もしくはほとんどまったく耳を傾けず、諸人からきわめて畏敬されております。〜家臣の待遇については厳格で、日本のすべての国王・領主を見下しており、自分の家人や家臣であるかのように肩の上から彼らに話をします。」(わかりやすいように改訳しています)

う〜ん。いかにも私たちがイメージしている信長に近いと思いませんか?
現在の信長像に大変に影響を与えているといえるでしょう。

ただね、声の高さだけはどうかな。よく大河ドラマで信長っていえばこう、渋い人がなりますよね。『秀吉』のときの渡哲也とか、『功名が辻』の舘ひろしとか、最近でいえば『天地人』は吉川晃司か。

なんかだいたい声が低くてシブいんよね。もう渡哲也とかさ。「猿!!」と呼ぶときとかさ。
ありゃ〜ウソじゃないかな〜。

ルイス=フロイスがいっている「声が高い」っていうのはかん高い声を指しているのではと。そう考えるとね、ゲームセンター「楽市楽座」のCMの信長の声、微妙にマッチするんですよ!(^^)高いんですよね。ちょっと奇声に近いですけど(笑)

そういえば織田家の17代目、フィギュアスケートの織田信成選手、声高いですよね。やっぱり血を引いてるのかなあ、何て思うんですけど。

ルイス=フロイスが記したこれらの記録は、『日本史』といいます。彼は長崎の横瀬浦から日本に上陸しました。時は大村純忠がポルトガル人と貿易をおこない、横瀬浦が栄えていた1563年です。
↓フロイスがたどり着いた横瀬浦の港


フロイスの銅像がこの横瀬浦の港近くに立っているということで、探してみる。

・・・。

どこ?

あっ!


きみはひょっとして・・・


「ソウデース!ワタシガルイス=フロイスデース!」



思わず握手しちゃいました(^^)

フロイスは平戸から京都へ向かい、信長に会い、キリスト教の布教を認められるんですね。

しかしその後、秀吉がバテレン(宣教師)追放令を出したあと、長崎に帰ってきます。そしてあの26聖人殉教の事件も記録に残すんですね。フロイスは彼らの最後を見届け、記録に残します↓

↓26聖人殉教地にある、フロイスを記念する石碑。


その後、長崎で死去。何とも長崎と縁の深い方でした。

ちなみに横瀬浦には天主堂(教会)の跡を示す石碑が立っています↓

ただ、実際に立っていた場所は公園脇の細い道路沿いらしいですけどね。

ほのぼのできてよい場所です(^0^)横瀬浦★ぜひ1度はおいでませ。


横瀬浦公園  西海市西海町横瀬郷
26聖人殉教地  長崎市西坂

天正遣欧使節〜ねむるミゲル〜

海外旅行に行かれたことのある方、いらっしゃいます?

今は便利ですよね。お金と時間とパスポートさえあれば、飛行機で外国へ行ける。インターネットもずいぶん普及しましたし、外国もかなり身近に感じます。

しかし安土・桃山時代なんかになるとどうでしょ。外国に行くとなると船しかないわな。もちろん近代的なエンジンなんかついていないわけで。今でいえば、もはや他の惑星に行くようなとんでもない気持ちだったんじゃないでしょうか。日本からはるかかなたのヨーロッパとまでとなれば、どうでしょう。相当の勇気が必要だったはずです。

1582年、少年4人が長崎の港からヨーロッパへ旅立ちます。(天正遣欧使節

↓天正遣欧使節が旅立った波止場跡。「え、ここに港があったの!?」ってな感じの場所です。


4人の少年の名は、伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン。ん?この名前。彼らは日本人か外国人か?

答えは日本人。洗礼名をもらっているんですね。彼らはキリスト教徒です。

当時はまだキリスト教が禁止されておらず、布教が認められていた時代でした。戦国大名の中には、キリスト教に自ら入る者もいました。(キリシタン大名

少年達は、キリシタン大名である大友宗麟
(豊後の大名)、大村純忠(肥前大村の大名)、有馬晴信(肥前有馬の大名)が支配する領土でそれぞれ産まれました。特に伊東マンショは大友宗麟の親戚、千々石ミゲルは大村純忠の親戚です。

少年達は、宣教師ヴァリニャー二によってつくられた「セミナリオ」というキリスト教の学校(中学校のようなものだと考えて下さい)で勉強をしていました。

有馬にあったセミナリオ跡。セミナリ「ヨ」となっているのは発音上の違いです。4人はここで勉学に励んだんですな。日本語とラテン語の2カ国語が教えられ、当時としては珍しく絵画・音楽教育もおこなわれていました。生徒数は100人を超えています。


宣教師ヴァリニャー二は思った。「少年達をキリスト教の本拠地であるヨーロッパに連れていこう。本場でたくさんキリスト教の勉強をさせて、帰国後、日本でバリバリ布教してもらオウ!」

ヴァリニャー二はこのことを4人の少年の管理者にあたる大友・大村・有馬3人のキリシタン大名に話します。そしたら3人はこころよく「オーケー(^0^)」だってぼくらはキリシタン。

で、1582年、4人の少年たちは希望に燃えて出発するんですな。

そして2年6ヶ月後、ヨーロッパへとたどり着きます。彼らは熱烈に歓迎され、スペイン国王やローマ教皇に会い、学びに学んで1590年、日本へ帰ってきます。

日本は秀吉の時代になっていました。秀吉は1587バテレン(宣教師)追放令を発令しており、宣教師の国外追放を決定していましたが、まだ本格的にキリスト教を取り締まってはいませんでした。

その後4人はキリスト教の勉強を続け、キリスト教の大学である「コレジオ」に進みます。しかしこの頃にはキリスト教の迫害が強くなってきていて、コレジオは場所を天草や長崎と、転々としています。

そして、4人はさらに勉強をおこなうべく中国のマカオにあるコレジオに留学しようとするんですが・・・留学したのは3人だけでした。

千々石ミゲル。彼はキリスト教を棄てた。

自己の使命と誓いキリスト教布教のために生きてきた彼が、信仰を棄てました。

一説には、彼は4人の中でも特に体が弱かったらしいんですね。勉強もなかなかうまくいかんかった。それが原因でミゲルはマカオへの留学を認められなかったらしい。どうしようもないやるせなさ、嫉妬を感じ、絶望して信仰を棄てたといわれています。

それからの彼の人生は、悲惨だった。

もとキリスト教信者で使節という過去があったせいでしょうか。時代は迫害のまっただ中。彼は大村に住んでいたんですが、追放されます。そして島原半島の有馬に引っ越しますが、そこでも暴行を受け死にかける。そして逃亡の生活を送ります。

その千々石ミゲルの墓が2003年、諫早市多良見町で発見されました。

千々石ミゲルの息子「千々石玄蕃(げんば)」が建てたと思われます。
↓墓石の裏には、確かに「千々石玄蕃」と記されています。

↓お墓の周辺には、ベンチとノート(柱にぶら下がってます)があります。ミゲルへの自分なりの思いを書き込んできました。

彼の墓は大村を向いています。伝承では、「追放された大村にうらみをもって死んだので、大村のみえるこの地に、大村をにらみつけるように葬った」といわれています。
↓ミゲルが見ている風景。自然豊かな光景の先には、大村が・・・。

さて、他の3人はその後どうなったのでしょうか。

伊東マンショ・・・マカオから戻り、九州各地で布教し、長崎で病死。

原マルチノ・・・マカオから戻るが、キリスト教の弾圧が強まった日本を去り、再度マカオへ行き布教を行う。死後は師匠であるヴァリニャー二と同じ場所に葬られた。

中浦ジュリアン・・・マカオから戻り、キリスト教の弾圧が強まった日本に留まり、何とか九州で布教を続けるが、捕まって長崎の西坂で処刑された。

彼は死の直前、「私はローマにおもむいた中浦ジュリアン神父である!」と言い放ったといわれています。

自己の生涯への誇りを叫んだ言葉といえるでしょう。

↓中浦ジュリアンが殉教した西坂。ここは26聖人が殉教した地でもある。多くのキリスト教信者がここで自己の信念に殉じていきました。


2007年6月、ローマ教皇は中浦ジュリアンに「福者」の称号を与えることを決定。2008年11月24日、長崎で「列福式」が行われ彼が「福者」となったのは、記憶に新しいですね。

少年でありながら、「日本人」としてヨーロッパにおもむき、ヨーロッパ人に日本を強烈に印象づけた彼らの勇気。そして、帰国後の彼らの生涯。

悲痛に見える箇所も多いですが、彼ら自身は悲痛に感じたのでしょうか。だとしたら、誰が、どのように感じたのでしょうか。4人の生涯を見ていくと、様々な想いが錯綜します。

信仰とは、生きる意義とは何だろう。多くの示唆を与えてくれます。


南蛮船来航の波止場跡  長崎市江戸町
有馬のセミナリヨ跡  南島原市北有馬町
千々石ミゲルの墓   諫早市多良見町山川内郷
26聖人殉教地  長崎市西坂



26聖人殉教〜悲しみの大村湾、そして西坂〜

安土・桃山時代といえば、超メジャーな有名人、織田信長、そして豊臣秀吉

秀吉は信長と同じく、外国人宣教師が日本に来てキリスト教を広めることを認めていました。しかし、秀吉はここ長崎に来てびっくりしてしまいます。

何と、教会が立ち並び、外国人である宣教師が我がもの顔で歩いているではありませんか。ここは日本なのに外国か?という感じです。

当時、長崎の領主は大村純忠という人で、彼は敵が多く、ライバルからいつ倒されるかとひやひやしていたんですね。そこで純忠は、何と自らキリスト教に入り(キリシタン大名)、貿易の権利を得て、武器などを大量に輸入しました。そして長崎をキリスト教に寄進していたんですね。

何とかこの方法で今までライバルに倒されずにがんばってきた純忠だったのですが、秀吉はそんなこたあ知りません。「こんにゃろう!宣教師め、わしの国で何しちょるか!」ってな感じでしょう。

で、1587年、秀吉は「宣教師は日本から出ていけ!」とバテレン(宣教師)追放令を発令します。でも外国と貿易は続けたかったので(もうかるからね)外国人との付き合いは続きました。つまり「貿易は続けるけど、キリスト教の布教はダメよ!」というものでした。

しかも、キリスト教を個人で信仰することは認められてるんですね。さらに大名が信仰することも許可制ですが認めています。だからこの命令はあまり効果はなかった。

そんなとき、秀吉を本気にさせる事件が起きる。

土佐(今の高知県)に、イスパニア(スペイン)船のサン=フェリペ号が漂着した。秀吉の家来がこの船の乗組員に話を聞いたところ、とんでもないことを言っている。

「私たちスペイン人はネ〜私たちの信じているキリスト教をまず教え込んでネ〜私たちの言うことを日本人が聞くようにしてネ〜そのあと国を侵略して植民地にするのョネ〜」

キリスト教の布教は侵略のためだと言っている。秀吉の家来びっくり。「こいつらは油断ならん・・・」すぐに秀吉に知らせます。

秀吉は怒ります。そしてどうしたか。

1597年、6人の宣教師とキリスト教を信じる20人の日本人(うち最年少は12歳)とあわせて26人を捕まえ、長崎市西坂での処刑を決定しました。

彼らは鼻・耳をそぎ落とされ、見せしめのため大坂から長崎まで歩かせられました。1月10日出発。

2月4日、長崎県内に入り、彼らは東彼杵の大村湾↓にたどりつく。


大村湾彼杵港には船がつないであり、彼らはその船に乗せられて時津へとむかった。

↓東彼杵の彼杵港に立つ日本26聖人乗船場跡・・・
 
そして翌日2月5日、長崎の西坂へ。


最年少の12歳の少年は処刑寸前に信仰を捨てるよう説得されるが、断った。

長崎出身の13歳の少年は、泣き崩れる両親に、微笑みながら「泣かないで」となぐさめた。隣にいる神父に、「神父様、歌いましょう」と歌いながら槍で刺され、殉教。

26人は、ここ長崎の西坂で処刑された・・・

1862年、ローマ教皇はこの事実を知り、26人に「聖人」の称号を与え、26人は「26聖人」と称されることとなった。そしてこの事件は「26聖人殉教」と広くいわれるようになったのです。

信仰心の強さが死を超越している。改めて信仰というものの存在を考えさせられた。

ううむ・・・。

ちなみに、殉教者たちは耳をそぎ落とされた。そこでこのレリーフに注目してみると・・・
 
 ↑右耳はない!           ↑左耳はある!

ちょっと写真がわかりにくいかもしれませんが・・・実はそぎ落とされたのは片耳なんですね。これ何でかというと、秀吉は両耳をそげと言ったらしいんですが、秀吉第一の家来である石田三成が片耳だけにしてやれと少しでも犠牲を減らそうと努力したらしいんですね。

ちなみにこのレリーフは1962年、彫刻家の舟越保武さんがつくられたんですが、舟越さんがお亡くなりになった日は何とこの26聖人殉教の日と同じ2月5日だそうです!!

ここ西坂には26聖人記念館があり、中には江戸時代の禁教時代に守られ続けた「銅像弥勒菩薩半跏思惟像」や絵画「雪のサンタ・マリア」など、キリスト教関連の史料がたくさん展示されています!ぜひ1度、この迫害に殉じたキリシタンの「信仰」という強い想いに触れてみてください。


日本26聖人殉教地 長崎市西坂