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奇兵隊陣屋跡〜ナビとわたしと晋作と〜

みなさんこんばんは。鳥居正洋です。

かなりお久しぶりになってしまいました。見ていただいた方、ありがとうございます。
更新遅くなりすみません。私は無事生きております。

今日ご紹介する史跡はこれ↓


「奇兵隊陣屋跡」でございます。

奇兵隊→1863年(幕末)、高杉晋作の企画により結成された戦闘部隊。武士のみならず、町人・百姓など身分を問わず隊士が集った。原則部隊内平等。無類の強さを発揮し、江戸幕府軍が長州に攻めてきたとき(長州征討)活躍した。

長州藩は山口県下関にこの陣屋跡ございます。


ワタシ、高杉晋作推しなんです。

授業を聞いていただいたみなさんはご存知だと思うんですが…。

この陣屋跡、偶然見つけたとです。

長州巡検のとき、ルートに入れてませんでした。ガイドの方にも紹介してもらえず、

高速乗ろうとしたら、ナビが全然違う方向を示したので、

おかしいな〜と思って運転していたらですね。

偶然この陣屋跡にたどりついたと。

ウソつけと思ったでしょ!いや、ガチなんですよ。

ナビ壊れたかなと思ったもんね。

晋作、ありがとう。

ちなみに、私の誕生日、高杉晋作の命日といっしょなんですよ。

4月14日!



すみません、調子のりました。


 

かっこいいです。奇兵隊。

ちなみに晋作の墓はこの近くにあります。(車で5〜10分くらい)
「東行庵(とうぎょうあん)」

奇兵隊の近くがいい、という想いからここにしたということです。

↓隊士が見る下関…静かな田園風景です





奇兵隊陣屋跡 山口県下関市
 

高杉晋作〜心を変え未来を変えよ〜

歴史とは過去の人間との対話である。と私は思っています。

現状、生きる中でつらいことや苦しいことがあったとき、それを打開する鍵が、私たちより先を生きてきた先人たちの生涯に必ずあります。

それを学び、そして「今」に勝とうと奮闘できることが、歴史を学ぶ大きな醍醐味であると思っています。

数年前、とてもつらいことがありました。そして私は過去のある人物と対話に行きました。

その人物とは、高杉晋作(たかすぎしんさく)です。

 「動けば雷電の如く。発すれば風雨の如し。」と評された幕末の風雲児、高杉晋作。

龍馬伝で伊勢谷さんが演じてましたね(^^)かっこよかよね〜。

彼が行ったことで有名なのは、町人や百姓などの武士以外の身分の人たちを中心に「奇兵隊(きへいたい)」という部隊を結成したこと。

この奇兵隊の構想は、後の徴兵令(ちょうへいれい)につながっていきます。武士という限られた立場の者だけが戦うんじゃなくて、国民全体が兵役の義務を負う、兵隊になるというシステム。

彼は吉田松陰の弟子となり、その力に磨きをかけ、江戸幕府を倒すべく行動していきます。

しかし!晋作は長州藩(今の山口県あたり)出身なのですが、長州藩はその方向性を問われていました。すなわち、幕府に従い味方するか。それとも「討幕」、幕府を倒すか。

晋作はがぜん幕府を倒す気でいるわけですが、長州藩政府の重役は幕府に従う気でいました。

「このままじゃいかん!幕府に従っていては長州藩の未来はない!」そう思った晋作は藩論を討幕へともっていくため、長州藩政府と戦う決意をします。

晋作は味方を集めるべく長州内の各部隊に協力を要請します。まず最初に自らがつくった奇兵隊に行きます。当時奇兵隊のリーダーは晋作ではありません。山県狂介(後の総理大臣、山県有朋)です。

しかし山県はこの誘いを断ります。「藩政府軍と戦ったところでどうせ負けるさ。俺らはやらないよ。」

あきらめず晋作はその他の部隊にも誘いをかけますが、み〜んなお断り。みんな藩政府軍と戦っても負けるに決まっているの一点張り。

挙兵の日。集まった人数は、1人。

そう、高杉晋作たった1人。

彼が挙兵した寺がここ↓下関の功山寺(こうざんじ)


藩政府軍との戦いが始まり、もうだめか、というその時!何と晋作の呼びかけに答えた部隊が駆けつけました!「晋作さん!一緒に戦いましょう!」

何とその後続々と部隊が集結し、最後には奇兵隊も参加し大勢力となりました。結果、晋作は藩政府軍に大勝利を果たしたのです!

彼の熱い魂が、部隊員の魂に灯を灯しました。そして藩論は一気に討幕へと傾きます。

「長州男児の肝っ玉をお見せ申す!」↓高杉晋作銅像

「ぬんっ!」


大活躍の晋作ですが・・・死期が迫っていました。

肺結核を患っていた晋作は1867年4月14日、療養していた屋敷で没しました。享年29歳。



彼は死ぬ寸前、読みました。

「おもしろき こともなき世に おもしろく」

「おもしろくもない世の中だけど、おもしろく生きていきたい。」29年というあまりにも激動である、あまりにも早すぎる生涯を振り返った歌でした。

死に立ち会った親友はこう返歌しました。

「すみなすものは 心なりけり」

「それは心ひとつで決まる。」おもしろくもない世の中を、おもしろくしていくのは自分の心次第だ。

心こそ大切なれ。幸福なのか不幸なのか。それは己の心が決める。

その返歌を聴いた晋作はこう言って息を引き取りました。

「・・・おもしろいのう。」

晋作の墓が下関の東行庵(とうぎょうあん、東行は晋作の別名)にあります。



この墓の前で、私は晋作と対話しました。

即座に怒鳴りつけられました。

「それくらいの悩みでへばってんじゃねぇよ。」

「自分の心を変え、未来を変えてみろ。」

「俺は、そうしたぜ。」




功山寺  山口県下関市
高杉晋作終焉の地  山口県下関市
東行庵  山口県下関市


 

子弟の絆〜野山獄跡と岩倉獄跡〜

幕末の大教育者、吉田松陰。彼の弟子といえば、長州藩を倒幕方針にまとめ上げた高杉晋作が有名ですが、松陰と共に銅像になっている金子重之助がいます。
↓山口県萩市にある銅像。左が松陰、右が重之助。

重之助はもともと百姓の生まれで、足軽身分の金子家の養子となった人物です。松陰にあこがれ、最初の弟子となります。

行動的な性格だったところは松陰と似ています。松陰が黒船に密航しようとしたとき、共についていくんですね。しかしこの行動が、重之助を死においやることとなります。

密航は失敗。松陰と弟子重之助は罪を問われ、萩の牢獄に入れられます。

松陰は萩に跡が残る「野山獄」という牢獄に入れられます。

この野山獄は武士層の牢獄。だから比較的上等な牢獄でした。

しかし重之助が入れられた「岩倉獄」は百姓や町人用の牢獄で、設備もひどいものでした。

皮膚病と呼吸器の病気を患っていた重之助は、日に日に弱り、この牢獄で絶命しました。

上の写真の右上にある「金子重輔(重之助)君絶命之處(ところ)」の石碑です。総理大臣田中義一の書です。

重之助の死に対する松陰の悲しみは尋常ではなく、獄中、自身の食費を削り重之助の墓を建てる費用としました。

松陰は重之助が「弟子入りしたい」と申し出たとき、こう言ったといわれます。

「私にはものを教えることなどできませんが、一緒に研究をしていくならかまいません。」

この謙虚さ。共に学ぶ同志として弟子を敬う姿勢に貫かれています。

松陰は「師道論」の中でこのようにいっています。「近頃、師道がゆるむのは、師が報酬を得るせいだ。江戸の師はそのほとんどが幕府などから報酬を得ているのに、その上弟子からも報酬をとる。つまり商売人であり、それが間違っている。師と弟子は、ともに聖賢の教えを学ぶ聖賢の門人である。」

松陰は自分の弟子を心から敬い、人として認め、卑下しませんでした。

私は、松陰のすごさはその「振る舞い」にあると考えています。人を心から敬う心。誠実な姿勢。その生き方に惹かれるからこそ、多くの資質ある弟子が松陰の教えを求めたのだと思います。

今の時代、人が人を敬う心こそが何よりも求められているように感じます。そしてその大切さを、私は松陰と重之助の師弟の絆から学びました。

今も萩には、師弟の精神を物語る2つの牢獄跡が、小道を挟み遺っています。


野山獄跡 岩倉獄跡  山口県萩市今古萩町

坂本龍馬2〜「忍耐力」が生む勝利〜

2010年大河ドラマ「龍馬伝」。もりあがってますね〜。

今の「天地人」もがんばってますが、「龍馬伝」ガンガンきてますよね。最近主要人物の配役も決定して、ニュースでも大きくとりあげられてますし。

龍馬役が長崎出身の福山雅治!みなさんファンですか?(^−^)本県出身者が演じるということで、がぜん長崎は盛り上がりますよね。長崎さるくでは龍馬のコースにファンが集中しているとのことでした。観光に他県から来ていただけるのはありがたいですよね。

しかも今回の「龍馬伝」は我らが長崎が誇る造船業の重鎮、三菱会社をつくった岩崎弥太郎の目線でストーリーが展開するらしいですね。この岩崎弥太郎は、龍馬と同じ土佐藩(今の高知県)出身の男で、龍馬に協力した大人物です。

岩崎弥太郎は龍馬の死後、この三菱会社を基盤に海運業で活躍。中国のシャンハイまでの航路も開設します。龍馬も海運会社「亀山社中」(のち「海援隊」になる)をつくっていましたので、岩崎弥太郎を、龍馬の後継者という人もいます。

ちなみにこの岩崎弥太郎、我らが長崎の高島炭坑を所有していました。ここでガンガン石炭ほって船のエネルギーにするんだな。

↓写真は高島港。長崎港からフェリーで35分くらい(^。^)

↓高島にある岩崎弥太郎像!(かっこいい^^)彼が指し示す指の先は・・・炭坑です。

この高島には「高島石炭資料館」がありまして、当時の地下鉄道のトンネルの入り口の現物とか、石炭の現物なんかが展示されています。
↓当時地下鉄道の入り口があった場所です。今は郵便局になっています。


岩崎弥太郎は香川照之が演じます。個人的にはうれしい(^^)けっこう岩崎は顔がふっくらしてるから、西田敏行なんてどうかな〜とか思ってたんですよ。でも香川さんは納得。かっこいいですよね。演技派。

はい、で、龍馬の奥さんのおりょう役が真木よう子なのはおいといて、この前私、「長崎学さるく」に参加してきまして、何と坂本龍馬のご子孫にお会いしてきました。

お名前は「坂本登」さん。龍馬には子どもがいませんでしたので、龍馬の姉の子ども(つまり龍馬にとっては甥ですな)が龍馬の後を継ぐんですけど、実はその後を継いだ2代目にも子どもができず、さらに養子をとって3代目、さらにまた養子をとって4代目、で4代目には子どもが産まれて5代目ときてたんですが、また子どもができず、ついにここで龍馬の後継は絶えます。

では坂本登さんはというと、龍馬にはお兄ちゃんがいるんですね。で、坂本家の「本家」は龍馬ではなくお兄ちゃんが継いでいた。この龍馬のお兄ちゃんは、坂本家「本家」の4代目なんです。でその本家の方は代々後継が続いてきて、坂本登さんは9代目にあたります。

お会いした場所は史跡料亭「花月」↓


この「花月」。現在は料亭です。

江戸時代、長崎には「丸山」という日本を代表する遊女街がありました。この「花月」は丸山を代表する遊郭である「引田屋(ひきたや)」の茶屋でした。現在の敷地もけっこう広いんですが、当時はもっともっと敷地が広かった。ここに時代を代表する有名人がたくさんやって来ました。

坂本龍馬もその1人。彼が酔っぱらって斬りつけたといわれる柱の傷が今も残っています。

この花月で、昼食をいただきながら、坂本登さんのお話を拝聴するという企画です。

で、いろいろと貴重なお話をお聞きすることができ、さらに2点ご質問させていただきました。

1点目。実は坂本登さんたち龍馬のご子孫は、現在北海道にいる。
その具体的な理由とは?

はい、お聞きしましたら、龍馬は実は北海道を新天地として開拓したいという夢をもっていたんですね。しかしその夢の実現前に暗殺されてしまう。それで、坂本本家5代目の方が、龍馬の夢を引き継ぐために北海道に移住されて、それ以降北海道にいらっしゃるとのことでした。

2点目。これはね。ぜひ伺いたかったんですけど、ご子孫から見た龍馬の人間像とは?

一般的に龍馬といえば、常に先を見て行動する、人をリードする先覚者としての印象が強いですよね。例えばこんな話がある。

当時、龍馬の故郷である土佐藩では長い刀をもつことが流行っていました。でも龍馬は短い刀をもっていたんですね。それで友達が「何じゃそりゃ」ってつっこんだら、龍馬は「実戦になったら短い刀のほうが素早く動ける」ほえ〜。納得した友達は短い刀をもつようにした。

そんで友達が「ほれ、龍馬。わしも短い刀じゃ」って見せたら、龍馬はふところから拳銃を取り出した。「銃の前では刀なんか役に立たんわい」友達、ガーン。でも納得。

そんで何とか友達が拳銃を手に入れて「ほれ、龍馬。わしも鉄砲じゃぞ」って見せたら、龍馬はふところから何と法律の本を取り出した。「これからは法律じゃ。世界は法律で動いとる」友達、もはやついていけませんでした。

この話は逸話なんですね。でも龍馬の性格をよく表しているといわれます。

龍馬は達観している。昔の日本はそれぞれ「」に分かれていて、藩から藩に移動するのにいちいち許可が必要だった。「何で同じ日本なのに移動も簡単にできんのじゃい。」そんな中、龍馬は脱藩(藩を許可なく勝手に飛び出る。重罪で場合によっては死刑)するんですね。

アメリカから黒船に乗ったペリーがやってくる。ロシアやイギリス、その外にも外国がどんどんやってくる。日本の中で「藩」という小さい単位で物事を考えてもダメだ。俺たちは「藩士」じゃない、「日本人」だ。という概念を龍馬はもったといわれています。

龍馬は貿易会社「海援隊」をつくった。これも逸話だけど、龍馬は「わしは世界の海援隊になる」といった。でも周りの者はそれを聞いて「ポカーン」としているんですね。周りはわからんわけよ。龍馬のスケールが。

だから耐える。龍馬は耐える。自分は「こっちが正しいんぜ」とわかってても、自分が活躍する時期がくるまで耐える。脱藩はしましたけど、龍馬の生涯を見ていくと、ぶちキレるかわからんような状況におちいっても、「まだ俺が死力を尽くす時じゃない」と耐えてるんですね。

これ、並大抵のことじゃないですよ。自分が正しいと思っている正義がある。まわりの龍馬の友達はどんどんその自分なりの正義のために死んでいくんです。そんな龍馬にまわりの友達も愛想つかしたりするんだけれども、龍馬は断じて耐える。耐えるんです。

そして時が来たとき、今まで熱いマグマをためこんでいた活火山が大噴火したように、まさに爆発的に行動した。それがあの「薩長同盟」のときです。

天下で幕府に対抗できる最強の藩が2つある。薩摩藩(今の鹿児島県)と長州藩(今の山口県)。この藩が同盟を結ばない限り日本に未来はない。龍馬は説得する。両方の藩の代表者を説得する。

「もしこの同盟が結ばれないなら、わしはこの場で腹を切る!」死を覚悟して龍馬は藩の代表者にせまった。決死の思いで耐え抜いてきたのは、この日のため。その思いが結実したのが「薩長同盟」なんです。

私は龍馬には先を見る先覚者としての力があると同時に、それを達成できる鉄壁の「忍耐力」があったのだと思います。いくら優れた力があっても、時が味方をするまで耐え抜かなければ何事も成就しません。人生において、何事も。

だから、彼は耐えた。その力こそ彼を支えた原動力のように思えます。

龍馬のご子孫であられる坂本登さんの龍馬に対する思い、それは「私もみなさんと同じ、龍馬の1ファンです。ただ子孫となると、そうともいえないときがあります。」ということでした。

この答え、深いなあ、って思いました。ご子孫として生きていくことの使命、自分もみなさんと同じ、龍馬のファンだという情熱。そして誠実さ。大変に光栄なお言葉をお聞きすることができました。ありがとうございます。

先日、「現代の日本を立て直してほしい昔の偉人ランキング」というのがあって坂本龍馬が1位でした。振り返ってみても、時代が困窮したとき、龍馬にスポットライトをあてることが多くなる。今回大河ドラマが龍馬になったのもわかるような気がします。今や100年に1度の経済危機、時代は暗雲としています。

しかし、大切なのは他人まかせにしないことではないでしょうか。「現代の日本を立て直すために学びたい昔の偉人ランキング」ってのはどうでしょう。龍馬は、もういないんです。立て直すのは、我々しかいない。

私が思うのは、歴史を学ぶのは、決して自己満足に終わってはならないということ。歴史を学んで、今の世に、未来に還元せねば何も意味がないということ。

だから「楽しいな」って思えたとき、そこが入口になるチャンスだと思います。「歴史って、日本史って以外と楽しいじゃん」って。

そのために、私も龍馬をはじめ偉大な人物の生涯から学び、みなさんに何かをお伝えすることができればと思っています。僭越ながら、そう願っています。

2009年8月1日、「亀山社中記念館」がオープンしました。ここは以前は閉鎖されてたんですが、龍馬がつくった貿易会社「亀山社中」を再現した資料館として再オープンしたんですよ☆早速行ってみました(^0^)

↓大にぎわいでした☆中には龍馬の紋服やブーツの複製品、龍馬が書いた手紙の複製品などたくさんの資料がありますよ(^^)

ちなみにこの亀山社中には秘密の「隠し部屋」があったらしい・・・(*。*)再現されとるばい!行ってみんしゃい☆

高島  長崎汽船伊王島経由高島行きフェリーで約35分
花月  長崎市東丸山町2−1
亀山社中記念館(亀山社中の跡)  長崎市伊良林2









隠元隆〜おつまみの伝来〜

いや〜毎日暑いっ!こんなときは生いっぱい!(おいおい)

そんでつまみはとりあえず「インゲン」豆っ!

ん?そういえば「インゲン」豆って、何で「インゲン」っていうんだろ?

じゃじゃ〜ん。それはね、江戸時代に中国人の隠元(いんげん)さんという僧侶が日本にもってきた豆だから、「インゲン」豆って言うんだよ。

 へえ〜・・・。と、かなりムリヤリな導入をしてしまいましたが、これ、本当なんですね。

江戸時代、中国人は長崎に貿易のためやってきます。1689年に「唐人屋敷」がつくられてからは、中国人はここに閉じ込められるんですけど、それまでは長崎の街中にいるわけです。

で、中国人は、長崎にお寺をつくります(これを「唐寺」といいます)。唐寺をつくる目的は、貿易のために日本に来るので商売繁盛、船で来るので航海の安全を祈るためです。

さらに、当時は江戸幕府がキリスト教を禁止していたので、「将軍様、あたしたちはキリスト教じゃないアルよ〜」とアピールするために仏教のお寺をつくったともいわれます。

唐寺の1つに「崇福寺」というお寺があります。ここの住職に欠員が出た。う〜む。どこかにいい適任者はいないものか・・・おっ、いた!中国にいるあいつがいい!

で、指名されたのが「インゲン」豆と、仏教の禅宗の一派である「黄檗宗(おうばくしゅう」を日本に伝えた隠元さん。「隠元隆(いんげんりゅうき)」なんですね。

しかし最初は、隠元さんやってきません。「私は中国でせないかん仕事があるアル。だから弟子ばおくるアル」弟子、長崎へゴー。

しかし・・・。弟子、船が座礁してしまい、死亡。

「ほええ!こりゃしもたアル。私が長崎までいくアルね」隠元さん、やっとこさやってきます。そして「崇福寺」の住職になるんですな。
↓長崎市にある崇福寺の山門。

この「聖寿山」は隠元さんが書いたのだ!

この第一峰門は国宝!すごい!

この大雄宝殿も国宝!すごい!


隠元さんは長崎市の「興福寺」にもやってきます↓

上の写真の興福寺の山門の「東明山」これも隠元さんが書いたのだ!
これもそうなのだ!「初登宝地」

こう見ると、字、キレイですよね。うまい!隠元さん、書道のプロでもあるんです。

↓興福寺の中です。隠元さんは上の写真の書を見てもわかるように、一流の文化人なんです。なので、隠元さんとお話したくてたくさんのお坊さんや学者がやってくるんですな。興福寺は毎日おおにぎわいです。


隠元さん、あんまり有名になったもんで、何と江戸幕府の4代将軍徳川家綱に会います。これ、すごいことですよ。そんで、朝廷にもあいさつに行って、後水尾上皇に京都にお寺をつくる権利をもらうんですね。つくられたのが「万福寺」。ここが黄檗宗の総本山になるんですな。

幕府と朝廷に認められたので、黄檗宗は天下にとどろく宗派になりました。長崎からきた中国僧の文化は、「インゲン」豆をはじめとして、結構身近にあるものなんですね。

ちなみに長崎の「興福寺」の住職には「如定(にょじょう)」という人がいます。彼がつくったのが「眼鏡橋」です(^0^)長崎名物ですよね☆↓

そしてこの眼鏡橋をつくったのが「如定」↓


ね、身近でしょ(^^)歴史的な背景のもと、日本に伝わっている中国文化は結構あるんですね。


崇福寺 長崎市鍛冶屋町7−5
興福寺 長崎市寺町64
眼鏡橋 長崎市魚の町