スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

中江兆民〜足軽の子、東洋のルソーになる〜

「中江兆民」(なかえちょうみん)

「東洋のルソー」といわれ、フランス啓蒙思想を日本に紹介した日本思想史に残る偉人。

彼の行動により、いっきに自由民権運動が加速することになります。

中江兆民は、土佐藩(現在の高知県)の足軽、中江元助(なかえもとすけ)の長男として生まれました。

彼の出生地がここです↓



偉大な思想家の存在を、ひっそりと伝えています。


中江兆民出生地  高知県高知市






 

福澤諭吉〜自分自身を明らかにせよ〜

 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」

はい、誰の言葉でしょう。

・・・、さすがに聞いたことありますよね(^^)。福沢諭吉です。一万円札。
↓長崎市の諏訪神社にある福澤の銅像。



福澤は明治5年(1872年)、「学問のすすめ」という本を出版。大ベストセラーとなり一躍有名となりました。

この「学問のすすめ」、発行して9年間で何と70万冊も売れてます。今現在に至るまで何度も発行されなおし、現代語訳版も出ており、いったいどれほどの人が愛読したのか見当もつきません。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」このフレーズは「学問のすすめ」の書き出しの言葉なんですね。

この本、やはり内容がすごい。例えばこんな言葉がある。(改訳しています)

「自分自身の有様を明らかにして、知性・徳・仕事の棚卸し(整理)をせよ。」

「青年の学生が、学問も未熟なうちに役人になることを望んで一生その地位にいるのは、仕立て途中の服を質屋に入れてしまうようなものである。」

「地理や歴史の基本も知らず、日常の手紙すら書けないのに、むやみに難しい本を読もうとして挫折し、また次の本にうつるのは、元手もないのに商売を始めて、日ごとに職種を変えるようなもの。」

「その原因は何か。それはただ流れに任せて生きているだけで、自分自身の有様を反省したことがないからだ。生まれてから自分は何をしてきたか。いま何をしているか。これから何をするべきか』と、自分の点検をしなかったからだ。」

これ、ガッツンきました。ちょうど自分の進路に悩んでいるときにこの一節を読んだんですね。「ああ、これ、俺だ」と衝撃を受けました。

自分の実力もわからずに、現状を嘆いても仕方ない。まずは自分自身を見つめなおし、そして高める努力をしなければ、何事も永続することはできない。

まず自分自身を変えろ。環境じゃない、自分だ。と。

こういった人生において大きな示唆を与えてくれる言葉がたくさん詰まっているんですね。明治という文明の開化期に庶民が愛読した気持ちが、わかるような気がします。

さて、この福澤諭吉、長崎に来ています。

ときは1854年、黒船に乗ったペリーがやってきた翌年です。青年期の福澤は、蘭学(らんがく、西洋の学問)を勉強するため、長崎市桶屋町の光永寺(こうえいじ)にやってきました。
↓福澤が来た時から立っている山門!貴重!

↓山門の右側にある「福澤先生留学址」の石碑。


当時の長崎は国際港としておおいに賑わっており、進んだ西洋の学問が流入していたため、多くの留学生がやってきていました。福澤もその一人だったんですね。

ただ、福澤は決して身分が高い武士ではなかったので、居間に寝ることができず、縁側の畳敷きのところで寝起きをしていました。この屋敷は今も残っています。
↓寺内。右奥の客殿が福澤が寝泊りをした屋敷です。


「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。」という差別打破の信念の言葉は、下級武士という身分から生まれた不遇な体験からの叫びでした。

続いて福澤は、長崎市町司町の砲術家(大砲の扱いのプロ)の山本物次郎に砲術を習うため、山本家に下宿します。

福澤は砲術を学びながら、目が悪くなっていた山本に本を読んだり、山本の一人息子に勉強を教えたりと誠実な姿勢で接しました。山本は福澤をえらく気に入り、「養子に来い」と誘うほどでした。
↓このとき福澤が使用した共用井戸が残っています。


この井戸周辺に山本家の屋敷があったと思われますが、はっきり場所はわかっていません。


福澤は1年長崎に滞在した後、大坂の大教育者緒方洪庵(おがたこうあん)適塾(てきじゅく)で死に物狂いで学び塾頭になります。ここで福澤が主に学んでいた外国語はオランダ語でした。

しかし・・・。1859年、日米修好通商条約が結ばれた翌年、外国人の居留地となった横浜に行ったとき、福澤は愕然とします。

店にかかっている看板の外国語が、読めない。外国人が話している言葉が、わからない。

その言語はオランダ語ではなく、英語でした。

国際社会で存分に活躍するためには、英語の力が必要でした。

福澤、ショックだったと思います。徹して今まで学んできたものが使えない、役に立たないことを突き付けられたわけですから。

しかし福澤がすごいのは、あきらめずに独学で英語を学んだことです。

そして1860年、咸臨丸(かんりんまる)勝海舟と共にアメリカへ行った後、その語学力を請われて幕府の翻訳方に就任します。

福澤は決して環境のせいにすることなく、自分自身を見つめなおし、自分に足りない部分を見つけ出し、そしてその部分を磨き続けました。

結果、光り輝いた福澤は周囲から必要とされる人材となりました。

福澤は「学問のすすめ」に書きました。

「自分自身の有様を明らかにして、知性・徳・仕事の棚卸し(整理)をせよ。」

環境ではない、自分だ。この言葉は福澤自身の体験から生まれた確信の一言でした。

1861年、幕府の遣欧使節に同行した福澤は、長崎に立ち寄り、山本物次朗と再会しています。

偉大な教育者であり思想家である福澤と長崎の縁、誇りに思います。


福澤諭吉銅像  長崎市上西山町 諏訪神社内
光永寺   長崎市桶屋町
福澤先生使用之井戸  長崎市町司町









長与専斎〜衛生という言葉を使い始めた男〜

新型インフルエンザが流行しています。十分に手洗い・うがいをおこないましょうね。

こういう時期は「衛生」という言葉、使いますよね。「衛生」面に気をつける、とかね。

実はこの「衛生」という言葉は、大村出身の「長与専斎」という男が使い始めて、一般に広まりました。

専斎は大村で生まれ、12歳から藩校五教館で学びます↓写真は五教館の黒門跡

16歳からは大教育者「緒方洪庵」が大坂に開いた私塾、「適塾」で学びます↓
適塾にはすごい先輩がたくさんいた。例えばあの「学問のすすめ」を書いた「福沢諭吉」。ここで専斎は仲間と切磋琢磨しながらむちゃくちゃ勉強したようで、5年後には塾頭になります。

22歳の時、師匠の緒方洪庵は、専斎に「外に出て勉強をより深めてきなさい」とすすめます。ちょうどその頃、長崎の出島にオランダ商館医「ポンぺ」がやって来ていました。そこで専斎、長崎に帰り、ポンぺの生徒となって医学を勉強します。

その後江戸幕府がなくなり、明治時代になります。専斎は伊藤博文の推薦により、岩倉遣外使節団に同行します。アメリカ・イギリス・フランス、そして医学の本場ドイツ、さらにオランダと、ヨーロッパの医学に触れた専斎は、それらの国々が病気の「治療よりも予防」に重点をおいていることを学びます。

これ、大事な視点ですよね。病気にならなきゃ治療は必要ないわけですから。メタボにならなきゃダイエットは必要ないわけですから。ダイエットを続ければメタボにはならないわけですから・・・ん?

帰国した専斎は、医務局の初代局長となり、「衛生」の言葉を使用します。もともと「衛生」という言葉は荘子に出ている言葉で、専斎が「ヘルス」という言葉を訳したものらしいですね。

その後、衛生局の初代局長となり、近代医学制度の基礎を築き上げます。

長与専斎の旧宅が、大村の国立病院内に残されています↓


当時は片町の海岸にありましたが、移築され、現在は国立病院内にあります。


この旧宅は天保初年、専斎のおじいちゃんの「長与俊達」によって建てられました。このおじいちゃんもなかなかにすごいです。大村編にありますのでぜひご覧ください(^^)

「衛生」という言葉、今日当たり前のように使用している言葉が、ここ大村で生まれ育った一人の男が使い始めた言葉ということ。そしてその男が生涯をかけて医療に力を尽くしたということ。大変に誇り高く感じます。


五教館  大村市玖島
適塾   大阪中央区北浜
長与専斎旧宅跡  大村市久原2丁目








大隈重信〜「勇気」こそ成功の秘訣〜

今現在(平成21年8月19日)日本全国、激しい選挙戦がおこなわれております。

全国で活発に地方遊説がおこなわれています。選挙カーに乗って、こうね、「清き1票を〜おねがい〜いたします!」なんてね。みなさんが勉強してるときは学校のまわりには来てほしくはないですが。

さて、この地方遊説を日本で最初におこなった人、だれかご存じです?

実は、もと内閣総理大臣である大政治家で、早稲田大を創設した大教育者、佐賀県出身の超有名人大隈重信らしいんですね。

大隈重信の総選挙応援演説の肉声が、2007年に東大先端科学技術センターにより公開されました。

大隈の肉声は、佐賀県立博物館で聞くことができます。電話機の受話器を模したものが置いてあり、そこから聞くことができます。

シブかったですね。シブい声。幾多の苦難を乗り越えてきた、覇気に満ちた男の声でした。今回はこの大隈について少しお話させていただきたいと思います。

彼は佐賀藩に生まれ、江戸幕府を倒すために活躍し、明治新政府で重役となります。

その後、国会を早く開いて議会政治をおこなうべきだと主張しますが、国会を開くのは早すぎると主張するライバル伊藤博文と対立し、1881年(明治14年、大隈は政府を辞めます(明治14年の政変)。

伊藤は国会を開くまで準備期間をおき、10年後の1890年国会を開くことを約束します。そこで大隈は、国会に備えて1882年に政党である「立憲改進党」を設立して活動を始めます。

1885年には内閣制度ができて、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任します。そして大蔵大臣や文部大臣など、各大臣が新しくつくられました。その中で「外務大臣」には特に重要な使命があります。それは不平等条約の改正です。

日本は開国した後、アメリカやイギリス、ロシアなどの欧米諸国と貿易についての条約を結んでいたのですが、これらはすべて日本側に不利な内容の条約でした。

まず、日本は「関税自主権がない」。貿易にかかる「関税」をいくらにするかは普通商品を輸入する国が決めていいんですね。だけど、この権利を日本はもっていない。これはおかしい。

さらに日本は「治外法権を認めている」。例えば外国人が日本で犯罪を犯したとき、普通は日本人の裁判官が裁判をおこないます。しかしこれができない。外国人が日本で犯罪を犯したら、外国人の裁判官が裁く。これもおかしい。

この状況は欧米諸国が日本を対等な国だと認めていないことを指します。差別です。

国の誇りとして、何とかこの不平等条約を対等なものにしたい。そこで1888年、期待を受けて外務大臣に大隈重信が就任します。

大隈は全力でこの条約改正の仕事をおこなうんですが、彼のやり方に反対する者もいた。大隈が大臣になって1年後のある日。彼は仕事を終え馬車に乗って移動していた。

すると一人の男がその馬車に近づき、突然馬車めがけて爆弾を投げつけた!

「ドッガーーーン!!!」

大隈は右足に重傷を負いながら、男に大喝した。この、馬鹿者めが!!」

男はその場でのどをかき切り、自殺した。

大隈をねらったのは、右翼団体「玄洋社」の一員でした。当時外交にたずさわる者は、まさに命がけだったのです。大隈は命は助かりますが、右足を失ってしまい外務大臣を辞めます。

その後大隈はこの男についてどう思っているかと尋ねられ、こんな風に答えました。

「爆弾を投げつけたヤツを、俺は憎いとは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である俺に爆弾を投げつけようとするその勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。若い者はこそこそせず、天下を丸のみにするほどの元気がなければだめだ。」

この余裕。まさに豪傑です。決してテロを容認してはいけませんが、いつ命を奪われるかわからない時代で生きた男の言葉であるように思います。

↓なんと大隈がこの事件で失った右足が、佐賀市の龍泰に保存されています。

大隈は、自分の右足を「記念になるから」といってホルマリン漬けにしてとっておいたんです。この右足、昔はこの寺に行ったら見せてくれてたらしいんですけど、こう言っちゃなんですけど、キモチワルイし、あんまし見せるのよくないんじゃないかということになり、今は公開していないそうです。

で、その後大隈は義足を使います。この義足は実物を見ることができます。こちらは佐賀市の大隈記念館に展示されています。すごい迫力ですよ、ぜひ1度ご覧頂きたい!

大隈はその後も政界で活躍し、2度内閣総理大臣を務め、1922年、84歳で亡くなります。

葬儀は盛大におこなわれました。およそ30万人もの人が集まったそうです。大隈がいかに国民に人気があったかが伺えます。大隈の墓は、先ほど紹介した龍泰寺にあります↓


大隈の残した言葉を紹介します。(わかりやすく原文から改訳しています)

「学問は脳、仕事は腕、身を動かすのは足である。しかし、成功を納めるためには、まずこれらすべてを行う意志の大いなる力がいる、これは勇気である。」

足をふっとばされようが、命の危険に幾度とさらされようが、自己の信念をまっとうした大隈の言葉。その根底は「勇気」だったのかと、納得させられる言葉です。

大隈重信が生まれ育った生家が、現在も保存されています↓


↓大隈は囲碁が大好きでした。一日中仲間とやってるときもあったそうです。

↓中にはもと首相の「海部俊樹」の書がありました。

↓大隈重信誕生地跡の石碑

さらに、この旧宅の中には大隈が小さいころ、勉強をしているとときに眠くなったら頭をぶつけたという「梁(はり、柱と柱を間にある横木)」が残っています。ここにがっつんがっつん頭をぶつけて意地で起きて勉強していたと。ううむ・・・。


龍泰寺  佐賀市赤松町
大隈重信旧宅跡(大隈記念館併設)  佐賀市水ヶ江二丁目






長岡半太郎〜カミナリおやじの信念〜

2008年10月、日本中が喜びにわきました。

小林誠益川敏英南部陽一郎の3氏がノーベル物理学賞を受賞、下村脩氏がノーベル化学賞を受賞しました!快挙!4人の日本人がノーベル賞受賞です!特に下村脩さんは、我らが長崎県の出身。同じ県民として誇りですね!本当におめでとうございます!

で、みなさん。ノーベル賞を初めて受賞した日本人、誰かご存じですか?

湯川秀樹」ですね。ノーベル物理学賞。

はい、ここでいきなりの化学。「原子」について。原子にはその中心となる「原子核」があり、その「原子核」の中には正の電荷をもつ粒子である「陽子」と、電荷をもたない粒子である「中性子」があります。その「中性子」と「中性子」を結びつけるものを「中間子」といい、原子核のまわりは負の電荷をもつ粒子である「電子」がぐるぐるまわっているという・・・

・・・。お〜い。文系はぐったりかな?いやこんなの基本かな?実は私も化学は苦手中の苦手でして・・・(^、^)

湯川は上に書いた「中間子」の存在を発表し、受賞となったのです。すごい。

その偉大な湯川秀樹をノーベル賞に推薦した男がいます。彼の名は「長岡半太郎」。

彼自身、原子構造の研究で偉大な功績を残しています。上に書いた原子の説明で、『負の電荷をもつ粒子である「電子」がぐるぐるまわっている』という記述がありますが、まさにそれです。原子核のまわりを電子が土星の輪のようにぐるぐるまわっているという「土星型」の原子モデルを発表します。すごい。

長岡は1937年、文化勲章初めて受章します。

その長岡半太郎は大村の出身です。

彼の屋敷跡が大村市久原にあります。↓

↓「長岡半太郎生誕之地」


長岡は幼少期をここ大村で過ごしました。その後上京し、小学校では落第するくらい成績が悪かったらしいですが、その後はめきめきと頭角をあらわし、東京大学に進学します。

そして東京大学の助教授となり、ドイツに留学、帰国後教授となります。そして「土星型」原子モデルを発表するんですね。

彼は大学退職後も、物理・化学の研究機関である理化学研究所に勤め、研究を続けました。1950年、85歳で死去したとき、彼は物理学の本を開いたまま亡くなっていたそうです。

長岡のあだ名は「カミナリおやじ」。思ったことは言いたい放題、相手に伝える。長岡の奥さんが関係者に「主人がいつも言いたいことばかり申しましてすみません」とお話ししたくらいです。

しかしそれは裏表なく話すという誠実さの表れでもあって、常に本気だということなんですね。彼のもとから湯川をはじめ優秀な研究者が何人も輩出されているのを見れば、いかに長岡の言動が清廉であったかが伺えます。

長岡は1934年、大阪に来た際に、「近松門左衛門」の墓参りをしています。

「近松門左衛門」ご存じですか?江戸時代に「曽根崎心中」「国姓爺合戦」などの多くの名作を残した大劇作家です。

↓大阪にある近松門左衛門の墓です。佐賀県唐津市にも近松の墓があります。
 
↓アパートの一画にちょこんとあります。


長岡は近松の墓を見て、こう言ったそうです。

「近松の墓を見て物思いにふけるくらいなら、彼の作品を1冊でも読んだ方がマシだ。」

近松の墓は、あれだけでの名作を残した大劇作家のものにしては小さすぎる。さびれている。しかし彼の魂は墓ではなく、作品に込められている。彼をわかろうとするなら作品を読めばよい。

長岡は思うんですね。自分は作家ではない、科学者だ。しかし研究を発表するということは、文章をつくりあげるのと大きくは変わらない。だから私も近松のように、未来永劫輝き続ける、魂の込められた研究結果を残そうと。

長岡は日本の物理学の開拓者、スタートをきった初めての人物です。ものごとを始めるとき、初代の人間というのは何でもしなければならない。基礎固めは大変なんですね。彼は磁気、理論の計算、分光学、地球物理学、電波の伝播の計算、そして物理学と、ありとあらゆる分野の研究をおこないました。その苦労は並大抵のものではなかったはずです。

彼の生涯を見て、強く思いました。

私自身分野は違えど、魂の込められた、後生に残る仕事をしてみせると。


長岡半太郎屋敷跡  大村市久原2−794−1
近松門左衛門墓  大阪市中央区谷町8−1