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西園寺公望〜自由主義者の悲嘆〜

現在、来年度の予算編成をめぐり国会では攻防が繰り広げられています。

大正時代、陸軍の2個師団増設の要求に対し、歳出を減らすため断固拒否した内閣総理大臣がいます。彼の名は「西園寺公望(さいおんじきんもち)」。

本姓は藤原で、あの藤原氏の血を引いています。貴族です。年齢が近かったこともあって、子どものときは明治天皇の遊び相手でした。

西園寺は名家という後ろ盾と学問への探究心、その資質をもって政治家として頭角をあらわし、伊藤博文がつくった政党「立憲政友会の総裁となり、2度内閣総理大臣の大任を務めました。また立命館大学の生みの親でもあります。

西園寺は1870年、20代のとき長崎に来ています。目的は勉強。フランス語を学ぶため、長崎にある広運館で学びました。そしてその間滞在していた場所が長崎歴史文化博物館近くにあります。


西園寺はここに7ヶ月間滞在し、大隈重信たちからフランス語のレッスンを受けたといわれます。

その後西園寺はフランスへ留学、自由主義的な思想・文化を学び、帰国します。親欧米的で、軍部など国家主義的な考え方に反発していたことがその行動から見てとれます。

さて、陸軍の師団増設要求を退けた西園寺でしたが、反発した陸軍大臣上原勇作は辞表を提出し内閣を辞めてしまいました。

当時は「軍部大臣現役武官制」という悪制があって、陸軍大臣・海軍大臣は現役の軍人からしか出せなかったんですね。そのため陸軍が次の大臣を推薦しない限り、内閣が成り立たない。

西園寺は総辞職をせざるを得ませんでした。

その後次第に政界から退いた西園寺は、1940年、反対し続けた日本・ドイツ・イタリアのファシズム国家の同盟「日独伊三国軍事同盟」成立の2ヶ月後に亡くなりました。

最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのやら」でした。


西園寺公望仮寓跡  長崎市玉園町


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