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軍艦島〜渡り廊下つなぎ隊〜

長崎県にある端島(はしま)、すなわち軍艦島
かつて炭鉱の島として栄えた無人島です。


世界遺産登録を目指す、日本の近代化遺産の一つですが、あまりにも衝撃的なその景観から、ミュージシャンのプロモーションビデオや、映画の撮影などにも使用されています。(B’zや007など)

かつてここは世界一の人口密度を誇り、日本の石炭産業を支えた重要拠点でした。
現在よりさらに小さな島だったのですが、数度の埋め立てにより、面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートルとなっています。


現在、さまざまなツアーが企画され、限られた場所ですが上陸もできます。

↓さて、下に見えますは軍艦島幼稚園です。


・・・どこ?屋上です。当時人口密度最大の島。幼稚園は屋上に設置されていたのです。
↓屋上の幼稚園と横の住宅街をつなぐ渡り廊下


↓幼稚園ときたらお次は小学校です。


↓お次は病院。


↓さらに神社。


神社も屋上にあったのですね。

島内には映画館などもあり、休日はにぎわいました。

このような各施設と住民が住むアパートをつないでいたのがこの渡り廊下です。↓

↓島内のいたるところにあります。


軍艦島。その施設をそれぞれ確認した上でツアーに参加すると、当時の人の様子がうかがえて、歴史の流れを感じることができます。機会がありましたら、ぜひ、実際にその目で確かめてみてください。感動をお約束します。



端島   長崎県長崎市










 

原子爆弾〜山端庸介が伝える母と子の絆〜

1945年8月9日午前11時2分

一瞬にして長崎は地獄と化した。原子爆弾ファットマンの投下である。

原爆落とされた日を言えない高校生がいるという話を聞いた。言えない大人もいるようだから、その責任は大人にあると言いたい。

だが、長崎県に住む君たちは言えるはずだ。必ず。

原爆投下地点は、当初長崎市街の中心地の予定であったが、天候が悪くなったため長崎市北部の松山町のテニスコートの上空となる。
↓平和公園にある原爆落下中心地。


同年12月の集計によると、原爆による死者は7万3884人、負傷者は7万4909人にのぼった。

原爆の遺構は長崎に数多く残されている。浦上天主堂立山防空壕如己堂・・・。

今回、みなさんに紹介したいのは、私が先日参加した、原爆に関係する学さるく、「カメラマン山端庸介(やまはたようすけ)の足跡」から得たことである。

「山端庸介」ご存じだろうか。彼は従軍カメラマン。兵隊と同行して、戦争の状況を写真におさめるのを職務とする。被爆直後の長崎を訪れ、滞在14時間で100コマを越える写真を撮影した。

1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏を受け入れた。そして8月15日、昭和天皇自らがレコードに声をふき込み、ラジオで流された「玉音放送」で、国民は終戦を知る。

終戦後、日本はアメリカに占領される。連合国軍最高司令官総司令部、すなわちGHQの支配を受ける。このGHQのリーダーがグラサンにパイプのマッカーサー

マッカーサーは戦後の日本を民主化させるため、たくさんの改革案を日本政府につきつけるんですが、日本にとってアメリカは今まで「鬼畜米英」とまでいっていた宿敵なんですね。いくら戦争が終わったといっても、アメリカに対して良いイメージをもたない、復讐心をもつ日本人もいるわけです。GHQに対する悪いうわさが広まって、改革が進まないのは困る。テロでも起こされたらもっと困る。

そこでマッカーサー、プレス=コードを定める。これは何かというと、新聞や本などの出版物にGHQを批判する文章を載せることを禁止したんですね。こうやって悪いうわさが広まるのを防いだ。

山端庸介の撮影した写真は、もちろん原爆の被害の凶悪さを写したものであって、もしその写真を新聞にでも掲載しようもんならアメリカに対する批判は強まる。そこで、山端の写真を含め、原爆に関する報道はすべてプレス=コードのもと、規制されました。

その後1952年、原爆に関するプレス=コードが廃止されると、山端の写真は大きく取り上げられ、ニューヨークの写真展で展示されることになります。

著作権の関係上、ここには載せられませんが、ぜひ彼の写真を見て頂きたいと思います。山端の記録写真を公開しているサイトがあります。英文ですが、ぜひ写真をご覧下さい。「長崎ジャー二ィー:Remembering Nagasaki」というサイトです。http://www.exploratorium.edu/nagasaki/mainn.html

・・・。

見て頂けましたか?写真の中に「おにぎりをもつ少年と母」の写真、ありませんでしたか?

その母と子が立っていた場所。ここです↓


長崎市宝町の横断歩道。

これを見たときね、何か横断歩道って、何かを象徴している気がしたんですね。

一歩間違えたら、死にますよね。横断歩道。

確認せず渡ったり、もしくは車側の不注意でぶつかることだってある。

命の分かれ目なんです。

で、そこに被爆した母と子が立っていたと。

生命の分かれ道である場所に、何か縁を感じずにいられなかったんです。

今回、山端が撮影した写真と同じ場所をめぐりました。憲兵隊の本部跡とか、長工醤油工場のえんとつ跡とか。現在は復興して、ほとんど見る影はありません。

めぐった場所の1つに、長崎を火災から守る防火帯があった場所があります。

今何になってると思います?



中町公園。

子ども達が楽しく遊んでいました。

お母さんと、いっしょに。

数々の平和への足跡、復興への足跡を、我々は過去を学びながら噛みしめねばならないと思います。

そしてその思いを未来に生かすことが、被爆地長崎に生まれ、そして生きる者として、果たすべき使命であるように思います。


平和公園   長崎市松山町
中町公園   長崎市中町2番地100






 

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