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長与俊達

江戸時代、「天然痘」はもっとも恐れられた病気の一つでした。長崎でもたびたび大流行して、たくさんの命が奪われました。

この天然痘の治療に尽力し、日本で初めて「牛痘」接種による予防に成功したのが、「長与俊達」です。彼は1790年に大村で生まれ、長崎で種痘法を研究しました。

当時、大村藩では天然痘の患者は「山揚げ」といって、古田山の収容所に隔離されていました。俊達は古田山に疱瘡所を設置し、懸命に治療にあたりました。↓

俊達は、ここでこれまでよりも安全な人痘腕種法をおこない、さらに1849年には、長崎に来日していたオランダ商館医モーニッケから「牛痘」を手に入れ、「牛痘」接種の予防に成功しました。

オランダ商館医との交流と、俊達の努力が、多くの人の命を救ったのです。

俊達の墓は、玖島の吹上墓地にあります。↓



彼の孫が「長与専斎」。日本で最初に「衛生」という言葉を使い始めた信念の人です。


古田山疱瘡所跡   大村市東大村1丁目
長与俊達の墓   大村市玖島3丁目







楠本正隆

楠本正隆」。彼は1838年に大村で生まれ、幕末に討幕運動に参加して活躍しました。

明治時代にはいり、あの大久保利通に請われ、正隆は新潟県令に任命されます。

当時、新潟では大河津掘割事件(百姓一揆です)が起きており、なかなか統治するのが難しい状況でした。大久保は正隆が適任だと、明治天皇に言上します。

正隆は明治天皇から「新潟の騒ぎを静めるように」との言葉をいただき、感激して新潟へ出発します。

新潟に到着した正隆はさっそく事件の解決に乗り出し、県政の改革にも努力します。正隆は県民の声を聞こうと、地元の人に会いに行き、よく話をしたそうです。

新潟の行政を高く評価された正隆は、その後東京府知事、衆議院議員、衆議院議長など重要なポストを歴任し、活躍しました。

彼の旧家が大村市に残っています↓

↓見事な庭園!



大村の武家屋敷の貴重な遺構として保存され、内部には資料もたくさんあります。

また、季節に応じてひまつりやライトアップなどのイベントもおこなわれていますよ(^^)


旧楠本正隆屋敷  大村市玖島2丁目

本経寺

大村市古町を歩いていると・・・うおっ、何じゃありゃ?


・・・何かのモニュメント?しかしどうやらここは本経寺というお寺のようで・・・ちょっとおじゃまして近くで見てみる。

でかっ

う〜ん。墓じゃ。小さいお墓にまじってでっかいお墓がたくさんあるばい。

実はここ本経寺には、大村純忠の一族、大村氏代々のお墓があるんですね。それが写真のひときわ大きいお墓なんです。大きいものは6mをこえます!家臣の墓もおいてあります。

さらに近くで見てみましょう↓これは大村氏21代目大村純信のお墓です。

よ〜く見てみると・・・?↓


・・・。読めます?「南無妙法蓮華経」と書いてある。といえば、何宗かわかりますか?

はい、日蓮宗です。ここ本経寺は鎌倉時代に日蓮がひらいた日蓮宗のお寺なんですね。「南無妙法蓮華経」は「題目」といいます。これを唱えるんですね。

ちなみに「南無阿弥陀仏」は「念仏」といいまして、これは浄土宗浄土真宗ですね。

他にもこんなお墓があります↓これは大村氏24代目大村純康のお墓です。

↓よ〜く見てみると?「妙・法・蓮・華・経」う〜ん、あからさま。


・・・。

みなさん疑問に思いませんか?

何でこんなに大きくつくり、こんなに「南無妙法蓮華経」つまり、日蓮宗であることをアピールしてるんでしょうか?

はい、ちょっと思い出してみてください。大村氏といえば、超有名人「大村純忠」という人物がいました。彼、何宗でしたか?日蓮宗?浄土宗?なに?

そう、キリスト教徒でしたよね。彼は日本最初のキリシタン大名でした。

純忠の死んだ後、時代はキリスト教が禁止される状況になっていきます。豊臣秀吉バテレン追放令を発令して宣教師を追放。さらに宣教師とキリスト教信者の日本人あわせて26人を長崎で殺害。

秀吉政権のあと、江戸幕府をひらき全国を支配した徳川家康禁教令を出してキリスト教の取り締まりをおこないます。

で、大村純忠の息子である大村喜前(よしあきはあせった。「おいの父ちゃんはキリスト教徒やったとばい・・・。ひょっとしたらおいたち子孫もまだキリスト教徒やと家康様に疑われとらんやろか・・・?」

事実、喜前は親父の純忠にならってキリスト教に入っていました。しかし、キリスト教徒の禁止の時代になる中で、日蓮宗に改宗していたんですな。

以後、大村氏はこうやってむちゃくちゃでかいお墓をつくり、必死に日蓮宗であることをアピールするようになりました。もう1度1枚目の写真を見てください。これ、お寺の外の道から見た絵なんですよね。道を歩いていても目に入ります。それ、ねらってつくったみたいですね。

しかし、大村純忠のお墓はこの本経寺にはありません。最初は大村市の三城というお城あたりにお墓をつくったらしいのですが、おそらく、キリシタンだったという過去があるためにお墓を破壊し、どこかかに埋めなおしたのではないかといわれています。

う〜ん。時の為政者の方針にあわせる、大村一族の苦肉の策がうかがえますな。と同時にキリスト教への迫害がいかに厳しかったかも伺える史跡です。


本経寺  大村市古町1−6




五教館

五教館」とは、江戸時代の大村藩の藩校、つまり学校です。

現在大村小学校の近くに、五教館で使用された「黒門」が残っています↓



大村藩では、1670年から藩校をつくっていましたが、1790年に、「五輪の道」を教えるという意味から「五教館」と改称しました。最初はお城の中にあったんですが、幕末の1831年に現在の場所に移ってきました。

町人や百姓も学んでいたようで、豊後の「広瀬淡窓」(咸宜園という私塾をひらいた大教育者)もこの五教館で授業をおこなっています。

幕末から明治維新にかけて、大村藩からは優秀な人材がたくさん登場しました。その理由はこの五教館の教育にあったといわれます。


五教館跡  大村市玖島1

中岳古戦場と菅無田古戦場

中岳古戦場」は、 1474年、2000あまりの大軍をひきいた島原の有馬貴純(たかずみ)と、700あまりの軍をひきいた大村純伊(すみこれ)が戦った場所といわれます↓


2000対700という戦力差がありながら、大村側はよくがんばったんですが、結局負けてしまいます。大将の純伊は何とか逃げて、6年後にようやく領土を奪い返して大村に戻ってきます。

このとき純伊が帰ってきたのを祝って用意された食事が「大村ずし」といわれています。領主が帰ってきて領民は喜んだんですが、突然のことだったので食器の準備ができず、「もろぶた」という長方形の浅い木箱にごはんを入れ、その上に魚や野菜などの具をのせ、さらにその上にごはんや具を入れて押したものを食事として出しました。

兵たちはこれを刀で切って食べたというんですね。だから大村ずしは四角なんだとさ。

菅無田古戦場」は、1577年、佐賀の龍造寺隆信と地元の郷士たちが戦った場所です↓


郷士たちは龍造寺の攻撃に苦しめられ、多くの死傷者が出たのですが、大村純忠が龍造寺の本陣を攻めたことにより、追い返すことに成功しています。

中岳古戦場  大村市中岳町
菅無田古戦場  大村市宮代町


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