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支石墓〜ちっちゃいけれど支えます〜

墓の歴史を簡単に区分けすると、

縄文時代→共同墓地である貝塚に埋葬

弥生時代→稲作が普及して貧富の差が出現→墓の形態にいろいろなものが出てくる

古墳時代→前方後円墳など、王墓といわれる巨大なものが出てくる


といった具合でしょうか。


墓の特殊性や大きさでその人の身分を表す。

表現方法の次元は違えど、強く偉大に見せるというのは権力者の構図。
今も昔も同じやね〜。人間だからね。

と、いうことで、弥生時代に出現しました支石墓を紹介↓


この支石墓は、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡で発見されたもの。
現在は同じく佐賀県唐津市の菜畑遺跡に設置されています。

巨大な岩が横たわっているように見えますが…

近づいてみると…

↓ねっ


小さな石が、巨大な石を支えている。
だから支石墓。

九州に多い墓制のひとつなんですね。

墓の形容や残された遺物から、埋められた人を連想する。

すっきり死にたいものですな(−;−)

ちーん。


宇木汲田遺跡 佐賀県唐津市
菜畑遺跡 佐賀県唐津市




 

金印〜伝説の金印ドッグ〜

祝!3000hit突破!

いや〜おかげさまでこのブログを見ていただいた回数が3000回を突破しましたよ。

本当にありがとうございます。

日本史を愛する者として、これからも史跡について、誠実に伝えてまいります。

生徒諸君、高総体、がんばれ!!

勉強も、がんばれ!!(「ぐひ〜」って声が聞こえてきそうやな)

そして、息抜きにでも、このブログを見よ!(ね)

はい、今日は超有名なん紹介しますよ?

時は江戸時代、百姓の甚兵衛さんが田畑を掘りよったら、何ともまあ珍しい金のはんこが出てきた。そう、金印です。

「こりゃ〜めずらしか!」ってなことで、この金印が発見されたのが、福岡県は志賀島(しかのしま)

↓志賀島遠景。海が美しい!
sikanosima.JPG

福岡市東区から車で行けます志賀島。近くにはマリンワールド海の中道(水族館)なんかもあるよ☆みなさん、見事大学生になったら恋人とデートのついでにでも行ってくださいな。

志賀島には金印にひっかけて、「金印の湯」(温泉)やら「金印定食」やら、はたまたウインナーを金印サイズの四角に切ってパンにはさんだ(笑)「金印ドッグ」なんかもあっておもしろい(^^)

海産物もうまい!おすすめは「さざえ丼」。おいしいよ〜。

で、金印ですが、授業の復習です。

2番目に登場する史料に『後漢書』東夷伝(ごかんじょとういでん)という史料がありましたね?(覚えてる?)忘れてる人はすぐにプリントと史料集で確認しなさいよ!

この『後漢書』東夷伝には、次のようなことが書いてある。

57年に、倭(わ、日本のこと)の奴国王(なこくおう)という王様が、後漢の光武帝(こうぶてい)から認めてもらい、金印をもらったと。

当時、日本の中は分裂状態で、国家としてのまとまりはありません。小さな「クニ」がたくさんあって、お互いに争っている。

そしてこの小さな「クニ」は、こぞって中国の王朝に朝貢(ちょうこう、貢ぎ物をもってあいさつに行くこと)をしていました。

なぜって、当時中国は世界最強クラスの国ですから、中国にこびを売っておけば、「オレのバックには中国様がついてるんやぜ〜」と他のライバルの「クニ」に言うことができる。

そしたら他のライバルの「クニ」は、「ええっ!?お前のクニには中国様がついてるの?そりゃ〜怖くて手が出せないよ〜」となるわけ。

日本国内での権威を強めるために朝貢するわけですな。

あいさつに行ったら。「おうおう、倭からよう来たなあ」と、お手紙とか高価な宝物とかたくさんもらえる。これを返礼といいます。

この「朝貢」と「返礼」で結ばれた中国と日本の関係を「冊封体制(さくほうたいせい)というんだね。

さあ、そして「奴国(なこく)」というクニが中国の当時の王朝「後漢(ごかん)」に朝貢をしました。そして返礼をもらう。それが「金印」だったわけ。

金印は奴国で大切にされたんでしょうが、行方不明でした。

そして江戸時代にこの志賀島で見つかったわけです。発見地は公園になっており、石碑が建っています↓
kinninnkouenn (4).JPG
石碑にはこうある。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう、金印に彫られた文字ですね!)金印発光之處(ところ)」と!

↓公園内部
kinninnkouenn (2).JPG
中央には金印の先ほどの彫られた文字、「漢委奴国王」を模した碑があります。↓
kinninnkouenn (3).JPG
こんなものもあります。金印の外観の像。↓

そしてこの金印の像を遠くから見ると・・・?

じゃ〜ん。
kininnkouen.JPG

金印が日本に渡ってきたころの、古代地図になってます(^^)私たちがいつも見てる地図を逆さにしたものです。こんな風に、金印発見の地は歴史公園として整備されているんですな☆

しかし、海がきれいやわ・・。↓


さあ、「金印ドッグ」でも食べに、バスに乗るか!

ん?このバス停の名前は・・・??

バス停の名前にもなっている志賀島の代表史跡、金印発見地でした〜(^^)


金印発見地  福岡市志賀島



加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡〜事件は博物館で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!〜

じゃ〜ん 

動画ですよ☆動画!いや〜すごい時代になりましたね(って何をいまさら…)

youtubeやニコニコ動画なんか動画をつくって公開、見るのなんて当たり前の時代ですが、いやはやブログで自ら撮った史跡をみなさんに紹介できるとは!

うれしい(^^)

生徒のみなさんにとにかくわかりやすく伝えたい!という思いがあるので、やっぱり動画は臨場感があっていいと思っております☆

・・・。しかし、携帯電話のみなさんごめんなさいっ(>。<)

容量がなかなか多くて、写真の画像ですら見れないという声も聞きます・・・。すみません。

ただ、今回からブログの記事は授業で全生徒分印刷して配布します。

もちろん授業で紹介した史跡ですから(^^)復習にもなりますしね☆

そして、見れる方はどうぞ、カラーでばっちりパソコン・携帯からご覧ください!(ただし、携帯からの方はパケット代に注意してください。パケホーダイにされている方は大丈夫ですが)

さて、本旨にもどってこの動画の史跡!

島根県で計39個もの大量の銅鐸が見つかり、これまでの「銅鐸は近畿!」という定説をぶち破るきっかけの1つとなった、史跡です。

どこ???

・・・。

そう、加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)」でしたね!(重要よ)


この写真は、実際に銅鐸が発掘された場所にその現場を復元した、レプリカです。

あるおじさんがショベルカーで工事してたら、「ガッコン!」って、音がした(おじさん談。「ポリバケツが割れたような音だった」)

ようく見たら!↓

おお、けずれとる。何が?

そうです、銅鐸(どうたく)ですね?

銅鐸とは何?釣鐘の形をした青銅器ですね。もともとは楽器だったのですが、だんだん巨大化していって楽器としては使われないようになり、お祭りやまじないのときに何らかの形で使われるようになったといわれています。

↓こんなにあるぞよ。(一部。レプリカ)

この銅鐸は、近畿地方でよく発掘されています。

しかし、ここ加茂岩倉遺跡は島根県。山陰ですね?そして39個も出土した。これだけの数の銅鐸が一度に出てくるのは本当にめずらしいんです。

どうもこの銅鐸の多くは近畿地方でつくられてここまで運び込まれたようなんですが、どうもここ島根県、すなわち「出雲(いずも)」にすごい権力をもった王様がいたんじゃないかなんて、新しい説が浮上するきっかけになった史跡なんです。

と、いうのも、この島根県の出雲には、もうひとつ、わすれちゃならない重要な史跡がある。

その史跡からは、はい、これがみつかった。
どどどどどどん。↓

どアップでもういっちょ♡

これ、な〜んだ?

・・・。

そうです、銅剣ですね?その数なんと358本(すげえ!)


ここは島根県の「神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき。加茂岩倉遺跡からちょっと車でいったとこにあります。

ここも工事中に偶然発見された。この銅剣358本と、そしてこれ↓


銅鐸銅矛(どうほこ)がまとまって発掘された!

もう1回復習ですけど、銅鐸は近畿地方、(平形)銅剣は瀬戸内海地方、銅矛・銅戈(どうか)は九州北部地方といった風に、発掘される場所はほぼ限定されていました。

しかし!この神庭荒神谷遺跡からは銅剣・銅鐸・銅矛がまとまって発掘された!

先ほどの加茂岩倉遺跡とあわせて、これだけの青銅器が出てくるということは、どうも出雲には巨大な王権があったんじゃないか?といわれるようになったわけです。

全景。左が銅剣、右が銅矛・銅戈。↓


学芸員さんに許可をいただいて、銅剣と撮らせていただきました(^^)ワーイ


ちなみにこれもレプリカですからね(**)

本物は島根県立博物館にあります。これがね、すごい。358本の銅剣が、一面にずらっと並べられていて、壮観です。すごい(本当に)

ぜひぜに島根に行かれたら博物館へ!加茂岩倉遺跡の銅鐸もありますよ〜。

・・・。そして、ここ加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡の発見の現場へ、足を運んでみてくださいね(^^)

やっぱり歴史はその現場で何かを感じなきゃ!おすすめです☆


加茂岩倉遺跡  島根県加茂町
神庭荒神谷遺跡  島根県斐川町
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