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一の谷の戦い〜義経様!ここマジで降りるんすか!〜

 「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱。いわゆる源平合戦。

源氏と平氏が激突したこの戦い…みなさんもご存知のことと思います。

戦場で華々しく活躍した源義経。彼はこれまでの戦いのスタイルを大きく変えたといわれています。

と、いうのは、奇襲。背後から一気に攻める奇襲戦のスタイルをとったこと。

その代表的な戦いが1184年の1月、播磨(はりま)国(今の兵庫県)でおこなわれた一の谷の合戦

平氏を討つため、源範頼(のりより、入試的にはこっちが大事)・源義経は播磨国に入った。

平氏は一の谷に陣をしいており、源氏の様子をうかがっていた。一の谷は地形的に前面が海で、背後が絶壁の山。せまい海沿いで、源氏が攻め込むには東の道1本しかない。

平氏は防御の面では絶対の自信をもっていた。「来るなら来い!源氏の野郎ども!」

そこで源氏軍、二手に分かれます。範頼軍は東の道から平氏を攻める。そして義経軍は山を登り一の谷を目指した。



山間の道…左右は急斜面!

「義経様!もう少しで平氏軍が見えます!」

「日の光が…まぶしいのう」

さあさあ眼下に平氏軍がよく見える…しかしながらここは「鵯越(ひよどりごえ)」といわれる断崖絶壁!

「義経様!どうしますか?」

「この崖を…降りる」

「!!??」

「この崖を一気にかけおり、奇襲をもって平氏軍を打ち倒す!」

「義経様!そ…それはあまりにも無謀では!?あまりにも急斜面、馬で降りれるものでしょうか!?」

「無謀ではない。見ろ。鹿がこの崖を降りているではないか。鹿が降りれるのに馬が降りれぬわけはない。道理だ。ゆくぞ!」

「よ…よしつねさ…」

「いざ!皆の者!ゆけ〜い!!!」

「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」




「な…なにごとじゃ〜!!?」

「げ…源氏!源義経でございます!義経の軍にございます!」

「な…何と!この鵯越を降りてくるとは!」

「我は源義経!平氏軍よ!観念せい!」

義経と東から攻め込んだ範頼の挟み撃ちにより、合戦は源氏の大勝利となりました。

しかしながらこの「鵯越の坂落とし」実際にあったのか!?という感じで諸説あります。

しかし伝説とはいえ…歴史のダイナミックさを味あうにはいい場所です☆

しかしここ、ほんとうに崖です。

ガイドさんに許可をいただいた上で・・・「キャー」

いや、ほんとうに危ないんすよ。私の背中はガイドさんにつかんでいただいております。(絶対にマネしないように!)

激戦場一の谷…必見!!


一の谷  神戸市須磨区







富貴寺大堂〜九州最古の木造建築物〜

突然ですが、私は高校、大学と弓道部に所属していました。

現役を引退したらOBになるわけですが、なんか引退した後もさみしくてついつい道場に足を運んじゃったり(笑)後輩は好き勝手やりたいのに迷惑してたり(^〜^)

部活生のみなさん、心あたりがある方もいらっしゃるんじゃないでしょうか(笑)

あのね、次の世代が仕切るときがきたら、やっぱり次の世代に後は任せなきゃいけないと思うわけですよ。

しかしながら平安時代後期、引退した後も強力に権力を持ち続けるやつらがいた。

天皇を引退した者は上皇(じょうこう)と呼ばれます。また、出家したら法皇(ほうおう)と呼ばれます
 
上皇・法皇が権力を持ち続け、政治の実権を握る体制のことを院政(いんせい)といいます。
院=上皇・法皇をさします。院が行う政治だから院政ね。

この時期の文化を院政期文化というわけですが、この時期の特色として地方に文化が広がっていったことが挙げられます。文化の地方普及ってやつだね。

これまでは中央で頻繁に建設されていたお寺や仏像が地方にも普及してくる。そして九州にも、現存する九州最古の木造建築物であるお堂が建てられました。名を「富貴寺大堂(ふきじおおどう)といいます。

大分県にある国宝です。正面は約5.4m、奥行きが約7.2mあります。

外観も趣がありますが、実は中がすごい。内部には壁画と木造阿弥陀如来像が安置されています。(国指定重要文化財)

当時は色彩豊かな壁画と仏像だったようで、当時を再現したものが大分県立歴史博物館にあります。きらびやかでなかなかの迫力ですよっ☆

ぜひこの富貴寺大堂の現場と、博物館の再現されたものをセットで見学へ行かれてください(^^)おすすめです☆


富貴寺大堂  大分県豊後高田市

紀貫之〜表現豊かに想いを記す〜

国風(こくふう)文化。平安時代、藤原氏がものすごい権力をもっていた時期に栄えた文化です。

古代、日本という国の文化は、遣隋使遣唐使の活躍もあって中国の影響をかなり受けていました。

しかし894年菅原道真(すがわらのみちざね)の訴えにより遣唐使は廃止され、これまでの中国文化を消化し発展させた、日本風(=国風)の文化である、国風文化が栄えていくことになります。

国風文化で特徴的なのは、ズバリ「かな文学」。そう、平(ひら)がな片(かた)かなですね。

生徒のみなさん、メールを友達に送るとき、「絵文字」(^^)使うでしょ?

もしくは漢字で書くと何か雰囲気が重〜くなるような気がして、わざと平がなで文章つくってメール送ることって、ないですか?

≪漢字使用≫「今日皆で一緒に遊びに行かない?」
≪平がな≫「きょうみんなでいっしょにあそびにいかない?」

ん、確かに平がなの方がやわらかい感じはするわな。

で、もういっちょ

≪ギャル文字≫「今日、ゐωTょτ〃一緒レニ遊ひ〃レニ行ヵゝTょレヽ?」

もはや理解不能でござんす(笑)。ちょっと前流行りましたよね(^〜^)今もあるのかな?ギャル文字。

この変換はわかりませんでしたので、ギャル文字に変換してくれるサイトを発見し、そこで自動変換してもらいました(笑)。

こういった若い世代の文字の変化は、自分たちで新しい表現をつくっていこうという姿勢があるという意見や、大切なきちんとした日本語が失われていくという意見、様々です。

私はやっぱりきちんとした日本語を生徒のみなさんには知っていてほしいです。その上で、表現を豊かにするのはアリかも。

知った上で使ってるのと、知らないで使ってるのは違うからね。やっぱり公的な正しい言葉は知っとかんば(^^)。

さて、国風文化の時期に日本最初のかな日記が誕生しました。そう、紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記です。

この土佐日記が出るまでは、日記は漢字で書かれていたんですね。で、内容はというと、自分の家柄の歴史とか、宮中との関係とか、子孫に伝達するために残す、という意識が強かった。

感情を書き記した私的な内容の日記ではないんですね。みんな漢字できちっと書いてある。

そこで感情を表現するために紀貫之はかな文字を使用することにしたわけです。

土佐日記は土佐の国司となった紀貫之の、船で移動する際の怒りや、子どもを失ったことへの悲しみなどの感情を豊かな表現で描いています。

その紀貫之が土佐から京へ戻るときに船出した場所、ここです↓

この石碑は、高知県の大津小学校の敷地内にあります。石碑の左側には川がありますが、昔は一面に大きく湾が広がっていました。


船出の際、紀貫之は詠んでいます。

「都へと思ふものの 悲しきは かへらぬ人の あればなりけり」

都へ帰ろうと思うものの、悲しいことに愛しいわが子は帰ってこないのだ、と想いを表現しています。

子どもへの愛情を詠んだ紀貫之の出航した石碑が、子どもたちが元気に輝く小学校の敷地にあることが、とても縁を感じずにおれません。



紀貫之船出の地碑   高知市大津乙

藤原純友〜幻のキューピー人形〜

平安時代といえば藤原氏ですね。

藤原氏は、ジャマなライバルの他の貴族を「こいつらは悪いことをたくらんどる」とあることないことでっちあげて、どんどん朝廷から追い出します(これを他氏排斥といいます)。

さらに、自分の娘を天皇に嫁がせて、産まれた孫を天皇にして、「俺は天皇のおじいちゃんじゃい」と立場を利用して権力を握ります(これを外戚政策といいます)。そして摂政関白といった重要なポストにつくようになるんですな。

こうやって中央でどんどん藤原氏は出世するんですけど、藤原一族にはいろんな人がいて、中には中央の出世コースにはずれ、地方で一役人として暮らす者もいるんです。

その内の一人に、伊予国の国司として中央から派遣されていた藤原純友がいます。純友は瀬戸内海にいた海賊を味方につけ、反乱を起こすんですな。大宰府を焼き討ちしてしまいます。

当時、関東地方でも武士の平将門が反乱を起こしており、朝廷は大混乱。この2つの反乱は935年から941年にかけて起こりました。この2つの反乱をまとめて承平・天慶の乱といいます。

結局この反乱は朝廷が派遣した武士によって平定されることになります。

で、藤原純友は討伐されたんですが、彼には孫がいました。名を藤原直澄(なおずみといいます。

そして何と、その直澄の子孫が大村の領主、大村氏となったという説があります。

直澄は船で伊予国から大村湾に入り、そしてここ↓寺島へ上陸。
寺島

この島には直澄の船をロープで結んだ夫婦石という石があるということで、この島をぐるっとまわってみたんですが、見つからない。海水浴に来てる親子がいたので聞いてみたところ、「知らない。」で、近くにいた漁師さんに聞いたら「あ〜、夫婦石ね、あんたが今まわってきたとこたい。」

ええ!?
実は上の写真の中にすでに夫婦石が見えてます・・・探してみそ。

ぐるっとまわってみる。
突き出ている木
もう何かね、この生えている木がまるでこの島を守るかのように突き出ているのが印象的ですよ。
枝が頭にあたりそうなくらいです。

ぐるっとまわってみる。
んん!?
おっ!発見!

おお〜発見!「ええ〜!?」って思わず言ってしまうくらい小さかったです(*。*)
↓これが夫婦石だ!石柱は目印で、実際の夫婦石はその下にあります!
ん?あれは・・・夫婦石
「長い期間の侵食で、こげん小さくなってしまったとやろね〜」と漁師さん。う〜ん。

ちなみに、この島の中には市杵島神社という神社があります。↓

そこにお供えされていたのは・・・
キューピー人形
うおお!!キューピー(大・小)2体!!

・・・。なぜキューピー?と思ったらですね、ここ市杵島神社は子どもの守護神を祀っているらしくてですね・・・。このキューピーは親子を表しているのだと想像しました。おちゃめなお供え☆
しかしお供えした方すみません・・・正直発見したときブキミデシタ(>。<)

夏場は海水浴にももってこい☆ぜひ1度は寺島へ☆

空海〜病原菌ばらまきの謎〜

真言宗という仏教の宗派をひらいた男、空海。

彼は奈良時代に遣唐使として中国にわたり、密教という秘伝の仏教を学び、日本に帰ってきます。

空海は天皇に好かれ、今の和歌山県にある高野山金剛峰寺というお寺を開くことを認められ、真言宗を開き、密教を日本に広めます。

空海はいろいろなところに出没しており、伝説が各地に残っています。
そして、長崎にも現れたようです。空海の超能力のひとつに、地面から水をわかせる力があります(んなアホな。いや、マジで)

そして湧いた水(といわれる)。これが「トッポ水」
↓長崎市夫婦川町にあります。



空海は、「独鈷」(どっこ)という密教の武器をもっています。こいつで「えいやっ」と地面をたたくと水が湧き出るそうです。それで湧き出た水だから、ドッコ水→トッポ水。

この水ね、江戸時代の船乗りたちが結構飲んでて活躍したのよ。「あの空海さんがこづいてだした水たい。ご利益あるっちゃなか〜?」って感じでね。
「飲んでみようかね〜」と思ったら、


??? 
何で?

で、調べたら、1986年8月に、この夫婦川町周辺で赤痢菌の患者が大量発生し、感染経路がこのトッポ水であることがわかったらしい。そんでもってこの水は使用禁止になったとさ。患者数は43人にのぼった。原因は生活汚水の混入らしい。

・・・。何だかね〜。ご利益のあるといわれる聖水から病原菌わんさかの汚水ですよ。これも環境破壊で歴史が崩れるひとつの例のように思えてならんばい。

トッポ水は長崎市夫婦川町にあります。夫婦川町公民館の横。間違っても飲んじゃダメよ。

ちなみに「夫婦川町」という町名の由来も、実はトッポ水。女性の方の川が雌川で、このトッポ水をさしており、男の雄川は春徳寺下の斎道寺泉をさします。この2つの川(泉)をさして、「夫婦川町」というんだね。
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