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天正遣欧使節〜ねむるミゲル〜

海外旅行に行かれたことのある方、いらっしゃいます?

今は便利ですよね。お金と時間とパスポートさえあれば、飛行機で外国へ行ける。インターネットもずいぶん普及しましたし、外国もかなり身近に感じます。

しかし安土・桃山時代なんかになるとどうでしょ。外国に行くとなると船しかないわな。もちろん近代的なエンジンなんかついていないわけで。今でいえば、もはや他の惑星に行くようなとんでもない気持ちだったんじゃないでしょうか。日本からはるかかなたのヨーロッパとまでとなれば、どうでしょう。相当の勇気が必要だったはずです。

1582年、少年4人が長崎の港からヨーロッパへ旅立ちます。(天正遣欧使節

↓天正遣欧使節が旅立った波止場跡。「え、ここに港があったの!?」ってな感じの場所です。


4人の少年の名は、伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン。ん?この名前。彼らは日本人か外国人か?

答えは日本人。洗礼名をもらっているんですね。彼らはキリスト教徒です。

当時はまだキリスト教が禁止されておらず、布教が認められていた時代でした。戦国大名の中には、キリスト教に自ら入る者もいました。(キリシタン大名

少年達は、キリシタン大名である大友宗麟
(豊後の大名)、大村純忠(肥前大村の大名)、有馬晴信(肥前有馬の大名)が支配する領土でそれぞれ産まれました。特に伊東マンショは大友宗麟の親戚、千々石ミゲルは大村純忠の親戚です。

少年達は、宣教師ヴァリニャー二によってつくられた「セミナリオ」というキリスト教の学校(中学校のようなものだと考えて下さい)で勉強をしていました。

有馬にあったセミナリオ跡。セミナリ「ヨ」となっているのは発音上の違いです。4人はここで勉学に励んだんですな。日本語とラテン語の2カ国語が教えられ、当時としては珍しく絵画・音楽教育もおこなわれていました。生徒数は100人を超えています。


宣教師ヴァリニャー二は思った。「少年達をキリスト教の本拠地であるヨーロッパに連れていこう。本場でたくさんキリスト教の勉強をさせて、帰国後、日本でバリバリ布教してもらオウ!」

ヴァリニャー二はこのことを4人の少年の管理者にあたる大友・大村・有馬3人のキリシタン大名に話します。そしたら3人はこころよく「オーケー(^0^)」だってぼくらはキリシタン。

で、1582年、4人の少年たちは希望に燃えて出発するんですな。

そして2年6ヶ月後、ヨーロッパへとたどり着きます。彼らは熱烈に歓迎され、スペイン国王やローマ教皇に会い、学びに学んで1590年、日本へ帰ってきます。

日本は秀吉の時代になっていました。秀吉は1587バテレン(宣教師)追放令を発令しており、宣教師の国外追放を決定していましたが、まだ本格的にキリスト教を取り締まってはいませんでした。

その後4人はキリスト教の勉強を続け、キリスト教の大学である「コレジオ」に進みます。しかしこの頃にはキリスト教の迫害が強くなってきていて、コレジオは場所を天草や長崎と、転々としています。

そして、4人はさらに勉強をおこなうべく中国のマカオにあるコレジオに留学しようとするんですが・・・留学したのは3人だけでした。

千々石ミゲル。彼はキリスト教を棄てた。

自己の使命と誓いキリスト教布教のために生きてきた彼が、信仰を棄てました。

一説には、彼は4人の中でも特に体が弱かったらしいんですね。勉強もなかなかうまくいかんかった。それが原因でミゲルはマカオへの留学を認められなかったらしい。どうしようもないやるせなさ、嫉妬を感じ、絶望して信仰を棄てたといわれています。

それからの彼の人生は、悲惨だった。

もとキリスト教信者で使節という過去があったせいでしょうか。時代は迫害のまっただ中。彼は大村に住んでいたんですが、追放されます。そして島原半島の有馬に引っ越しますが、そこでも暴行を受け死にかける。そして逃亡の生活を送ります。

その千々石ミゲルの墓が2003年、諫早市多良見町で発見されました。

千々石ミゲルの息子「千々石玄蕃(げんば)」が建てたと思われます。
↓墓石の裏には、確かに「千々石玄蕃」と記されています。

↓お墓の周辺には、ベンチとノート(柱にぶら下がってます)があります。ミゲルへの自分なりの思いを書き込んできました。

彼の墓は大村を向いています。伝承では、「追放された大村にうらみをもって死んだので、大村のみえるこの地に、大村をにらみつけるように葬った」といわれています。
↓ミゲルが見ている風景。自然豊かな光景の先には、大村が・・・。

さて、他の3人はその後どうなったのでしょうか。

伊東マンショ・・・マカオから戻り、九州各地で布教し、長崎で病死。

原マルチノ・・・マカオから戻るが、キリスト教の弾圧が強まった日本を去り、再度マカオへ行き布教を行う。死後は師匠であるヴァリニャー二と同じ場所に葬られた。

中浦ジュリアン・・・マカオから戻り、キリスト教の弾圧が強まった日本に留まり、何とか九州で布教を続けるが、捕まって長崎の西坂で処刑された。

彼は死の直前、「私はローマにおもむいた中浦ジュリアン神父である!」と言い放ったといわれています。

自己の生涯への誇りを叫んだ言葉といえるでしょう。

↓中浦ジュリアンが殉教した西坂。ここは26聖人が殉教した地でもある。多くのキリスト教信者がここで自己の信念に殉じていきました。


2007年6月、ローマ教皇は中浦ジュリアンに「福者」の称号を与えることを決定。2008年11月24日、長崎で「列福式」が行われ彼が「福者」となったのは、記憶に新しいですね。

少年でありながら、「日本人」としてヨーロッパにおもむき、ヨーロッパ人に日本を強烈に印象づけた彼らの勇気。そして、帰国後の彼らの生涯。

悲痛に見える箇所も多いですが、彼ら自身は悲痛に感じたのでしょうか。だとしたら、誰が、どのように感じたのでしょうか。4人の生涯を見ていくと、様々な想いが錯綜します。

信仰とは、生きる意義とは何だろう。多くの示唆を与えてくれます。


南蛮船来航の波止場跡  長崎市江戸町
有馬のセミナリヨ跡  南島原市北有馬町
千々石ミゲルの墓   諫早市多良見町山川内郷
26聖人殉教地  長崎市西坂



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