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佐賀の乱〜勝てば官軍、負ければ賊軍〜

明治新政府の英雄たちに挑み、死んでいった男がいます。

1867年、江戸幕府が滅亡し、時代は明治時代へと移っていきます。新しくつくられた新政府は、新しい国づくりをおこなうため、さまざまな制度を整えていきます。

この新政府の政治家として活躍したのは、みなさんもどこかで聞いたことがあると思われる超有名人ばかり。薩摩藩出身の西郷隆盛大久保利通長州藩出身の木戸孝允伊藤博文など。そして彼ら超有名人以外にも、新政府には薩摩藩・長州藩出身のヤツらが多かった。

なぜかというと、薩摩藩・長州藩は江戸幕府を倒すときに大活躍しているんですね。だから、そのあとにできた新政府では重要なポストにつくことができた。結果出してるヤツにゃあ何もいえないんですな。

しかし、もちろんその他の藩の連中も新政府にはいます。例えば佐賀藩出身の政治家。

超有名人でいえば大隈重信(早稲田大学をつくった人ですよ!)なんかでしょうけど、江藤新平という男がいます。知ってる?

江藤はえらそうなヤツが大嫌い。だから薩摩・長州がふんぞりかえっているように見えて大嫌い。「調子のりやがって・・・この野郎(怒)」ムカムカ。

さて、1873年、新政府では大論争が起こります。いまだ国交のひらかれていないお隣の国、朝鮮との関係をどうしようか、ということについてです。

日本は何回か朝鮮に「国交ひらいてよ」って言ったんですけど、朝鮮はいっこうに拒否。話を聞こうとしません。

ここで「征韓論」という考えが出る。この「征韓論」は、国交をひらこうとしない朝鮮に軍艦でせまり大砲でも1発お見舞いして、武力でおどしつけて開国させちまえという考え方で、江藤はこの論を唱えました。黒船でおどしつけてペリーが自分らの日本を開国させたのに似てますな?

同じく西郷隆盛や、土佐藩出身の板垣退助たちもいっしょに征韓論を主張する。

しかし大久保利通や伊藤博文は大反対。「今の日本には戦争する力などない。先に国内の制度を整えることが先決だ!」

話し合いはず〜っと平行線だったんですが、結局大久保たちの勝ちに終わります。決着!征韓論はダメ!アウト!

征韓論を主張していた江藤「やってられんわ、こんな政府(怒)」ムカムカ。キレた江藤は政府をやめてしまいました。このとき西郷隆盛や板垣退助たちも同じく政府をやめてしまいます。

そして江藤は板垣退助と共に、「薩摩藩・長州藩がぎゅうじっている新政府はダメだ!国民の意見をきちんと反映させる国会が必要だ!」と、国会の開設を求める民選議員設立建白書を提出しました。(民選議員とは、国会のことです)何とか薩摩・長州の独裁政治を終わらせたい。江藤はそう願っていました。

しかしどうも危険なニオイがする。どうやら江藤の故郷である佐賀で、新政府に対する武力による反乱が起こりそうだ。「おいおい、気持ちはわかるけどよ・・・」江藤は故郷の連中を説得するために佐賀に帰ります。新政府のやり方に不満をもつ連中は世間にごまんといたわけです。

しかし時や遅し。佐賀の過激な連中が、政府と関係の深い商人の家を襲ってしまいました。「あ〜あ、やってもうたか・・・」江藤はその連中にかつがれます。「新政府のやり方に反対して政府をやめた江藤さんが帰ってきた!あんたがリーダーになってくれ!」わっしょいわっしょい。

「もう、しょうがねえ。やってやるよ!」江藤、この反乱軍のリーダーになってしまいます。そして1874年、反乱を起こす。佐賀の乱」です

乱の参加者は何と約1万2000人。みーんな新政府にムカムカムカムカ。

「この江藤めが!!」反乱軍にムカムカの新政府の大久保利通は、熊本にある明治政府の軍隊「鎮台」を派遣、激しい戦いが始まりました。

反乱軍もよく戦いました。しかし圧倒的な政府の軍勢に押され、鎮圧されました。

捕まった江藤は、死刑になりました。「まあ、これが俺の人生よ・・・。」

彼は新政府にいた時、司法関係の仕事をしていました。彼は江戸時代にあった「さらし首」は残虐だと反対し、禁止する法律をつくっていました。

しかし彼は、自分のつくった法に適応されることなく、大久保利通たちの決定により、死後、「さらし首」になってしまいました。

↓佐賀県にある江藤新平の墓。ううむ・・・。

↓右側は江藤新平の墓。

↓確かに、中央には「江藤新平」と書いてある。

↓で、左側のお墓なんですけど、「江藤家之墓」って書いてある。江藤のご子孫の方のお墓かな〜と思うんですけど、さらにその横。「福田赳夫書」って書いてあるんですよ!これ、1978年、日中平和友好条約を結んだ総理大臣「福田赳夫」じゃないですかね?福田康夫もと総理のお父さんですよ。

ご存じの方いらっしゃったら・・・情報お願いいたします!

↓んで、江藤新平生誕地です。江藤が産まれたところ。

今住まわれてる方は、江藤と親戚関係の方ではありません。

江藤が産まれた屋敷、かなり城から離れてるんですね。ここから、江藤がやはり下級武士の生まれであったことが伺えます。上級武士は城に近いところに住まいがありますからね。

江藤の「この野郎!」のハングリー精神は、その生い立ちから生まれたのかもしれません。

また、佐賀の乱では江藤たち反乱軍だけでなく、鎮圧にきた新政府軍の兵士の多くが亡くなりました。彼らの墓が佐賀の乾亨院というお寺にあります。↓

↓確かに「明治七年」と書かれています。(西暦=明治○年+67 1874=明治7年+67)

当時、明治政府が備えていた軍隊のことを「鎮台」といいます。この「鎮台」は、東京・大阪・熊本・仙台にあって、後に名古屋と広島が加わり6つとなり、それぞれ軍を配置していました。

「佐賀の乱」では、熊本鎮台が中心となって反乱の鎮圧をおこないました。この乾亨院には戦いで亡くなった熊本鎮台の兵士達の墓があるんですね。

で、もう一度墓石を見ていただきたいんですけど、このお墓、白いですよね?でもところどころ黒くなっている。これ、最初は自然にこうなったと思っていたんですね。

でも、近くに昔からお住まいの方がおっしゃるには、この墓石は真っ白だったんだけれども、戦時中にあまりにも真っ白で目立つから、空襲の標的になる恐れがあったと。それでコールタールを塗りまくったそうなんです。で、そのコールタールがはげてきてるそうなんですね。
↓コールタール?


で、この乾亨院には佐賀の乱に参加した反乱軍の隊長である「朝倉尚武」という人のお墓もあるんですけど、政府軍のお墓と比べてみてください。↓


・・・。

政府軍のお墓の方が立派につくられていますよね?どちらのお墓も同年の明治7年につくられています。墓を建てたとき、新政府軍の威光をみせつけたかったんだといわれています。政府としては、反乱軍を悪役に仕立てあげねばいけませんからね。格の違いを見せつけないといけない。

反乱軍は悪役とされますが、大正2年に恩赦(特別な許し)が出て、慰霊碑がつくられることになりました。

これが、佐賀市にある「佐賀の乱」参加者の慰霊碑です↓でかい!

この慰霊碑、横から見ると・・・↓

か、亀?

・・・。

なんじゃろうか、これ、と思っていたらですね、この亀は「贔屓(ひいき)」といいまして、龍の子どもなんです。龍には9匹の子どもがいるらしいいんですが、どうも龍は長男(?)の1匹めばっかりかわいがったらしい。それで「えこひいき」という言葉が生まれたと(へ〜)。

で、この「ひいき」の上に慰霊碑が建っているんですが、この碑の土台は大地をさし、ゆるぎない信念を表すんだそうですね。

この慰霊碑の横には、佐賀の乱の戦没者の名が刻まれた石碑があります↓

↓確かに「江藤新平」

↓う〜む・・・。圧巻・・・。


「佐賀の乱」といわれる江藤新平の反乱ですが、地元佐賀では「佐賀の役」といわれることも多いんですね。あの戦いは「乱」ではないんだと。「勝てば官軍」という言葉があるように、「敗者」となった江藤をかばう地元の方も多くいらっしゃいます。


江藤新平の墓  佐賀市本行寺
江藤新平誕生地  佐賀市八戸町
佐賀の乱慰霊碑  佐賀市中の館万部島

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コメント

ここの桜や程よい風情のある感じが好きで昔よくこの場所を散歩してました。なぜ亀が身動き取れないような状態の石碑が建てられているのか長年ずっと気になってたので、今日何気に調べたら、佐賀の役が関係あるのですね。歴史に疎かったので何一つ知りませんでしが、初めて佐賀の役について興味を持ち、いろいろ文献を見ました。(その中の一つがこちらのサイトです。)

ただ、なぜこのような石碑???龍の長男(贔屓)が動けないようにされてるということは、贔屓するなって意味なんでしょうか…。

せっかく歴史ある場所なのに、ここは数年くらい前からずっと工事中(でも何もなされてない気が…?)なので、もっと開放してもいいのにと個人的には思います。(出入り自由なんですけど、何だか入ってはいけないような空気感が…)

ちなみに以前散歩していた頃は昼はもちろん、夜桜が綺麗で好きな場所でした。不思議な空気感のある不思議な場所です。

  • 彰子
  • 2015/03/11 02:48

私の3代前は佐賀から屯田兵として北海道に入植した。
その親(4代前)も、刀を持ったまま息子と一緒に来た。
言い伝えでは、「明治維新」では政府側だったと聞いていたが、
「佐賀の乱」では賊軍だったのでは?と思えてきた(笑)
そのうち調べてみよう・・

  • 2013/02/26 12:42

管理者の承認待ちコメントです。

  • -
  • 2012/11/06 08:23

はじめまして。
北海道の開拓の歴史を調べていたら(佐賀の乱)へたどり着きました。
北海道の開拓は、特に囚人道路は、佐賀の乱や西南の役などの政治犯によって作られたことに驚きました。
このブログも楽しく拝見しました。ありがとうございました。

  • かめ
  • 2011/11/16 09:43
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