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戊辰戦争〜心に響く母と子の愛〜

戊辰戦争」。1868年、京都の鳥羽・伏見の戦いにより始まった、朝廷軍と幕府軍の戦いです。この戦い、大村藩は朝廷側について幕府軍と戦いました。

そしてこの戊辰戦争に参加した大村藩の人物に、若干15歳の少年がいた。彼の名は「浜田謹」。
↓彼が謹吾くんです。んん?彼は戦争にいってるはずだが、彼がもってるのは武器?何?


はい、謹吾くんがもっているもの、それは「太鼓」なんです。

実は当時、戦争には「鼓手」という太鼓をたたく職務がありました。兵隊が進軍するときに列が乱れないようにしたり、兵士を勇気づけるために太鼓をたたくんですな。

彼は「鼓手」としておおいに兵士を激励し、戦いを支援しました。

しかし、秋田の角館(かくのたて)での激戦で、謹吾は銃で撃たれ、この世を去ります。若干15歳。

大村の兵士や角館の人たちは、謹吾の死を悲しみ、手厚く葬ろうとした。そのとき、彼が来ていた衣服の襟に、縫いつけてあった字があった。「何だ?」そこにはこう書いてある。

「二葉より手くれ水くれ待つ花の君がみたみに咲けやこの時」

この和歌は、母が謹吾におくったものでした。朝廷側に立ち、戦うことが決定した今、浜田家の名に恥じぬよう、華々しく活躍してほしいという激励の言葉でした。

謹吾はこの言葉を支えに、決死の戦場に向かっていきました。

この母の歌を見て、角館の人々は涙を流した。そして謹吾少年を縁として、1979年、大村市と角館町(現在は仙北市)は姉妹都市になるんですな↓


謹吾の墓は2つあります。1つは大村市の円融寺の跡地にある、護国神社です。
↓この旧円融寺庭園は400個の石をたてた美しい庭園で、国指定名勝です!



↓この中に謹吾の墓があります。髪の毛が埋めてあるそうです。

↓確かに「浜田謹吾・・」


そしてもう1つは、浜田家代々の墓地にあります。細い坂を上ると・・・?↓

↓発見!ありました〜!

↓奥の方に設置されています。最近きれいに作りかえられたのかな?

↓謹吾の墓のあたりから見える風景です。謹吾はどういう想いでこの大村を見ているのでしょうか・・・。


若干15歳で亡くなった謹吾少年ですが、彼と母の愛は、今も語り継がれています。


大村公園  大村市玖島1
旧円融寺庭園  大村市玖島2
浜田家の墓  大村市久原1丁目









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コメント

管理者の承認待ちコメントです。

  • -
  • 2018/12/02 15:42

幕末のあたりにハマってますが
戦となるとやはり犠牲がつきものであることを
痛感させられるというか…
しかし幕末大好きです(`・ω・´)!
土方さん、斎藤さん大好きです(`・ω・´)

  • 幕末大好き人間
  • 2014/03/16 19:46
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