スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

吉田松陰〜生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし〜

幕末の大教育者、吉田松陰

みなさんもどこかで聞かれたことないですか?

う〜ん、知らないなあ。と思われた方。松陰は江戸時代の塾の先生と思ってもらったらいいと思います。

松陰は長州藩の萩という小さな村で、松下村塾という塾をひらきました。松陰はこの塾で、革命の天才といわれた高杉晋作や、初代内閣総理大臣の伊藤博文など、数々の大人物を育て上げた先生です。

「おっ、なんかすごそうじゃん」と思ってもらえたらうれしいです(^0^)私、松陰の1ファンなんですね。

う〜ん。ファンというか、もう一人の弟子のような気持ちでおります(笑)以前、勤めていた学校の離任式で、吉田松陰の言葉を引用して生徒に壇上で話をしたんですが、そのとき、「吉田松陰は言っています」というところを、「松陰先生は語っておられます!」と先生づけで呼んでしまい、その後同僚の日本史の先生に、「お前は弟子か!」と相当つっこまれた覚えがあります。

でも、それくらい、松陰の生き様から私が学べたことは、おっきいんですね。教師として生きていく上で、多くの示唆を与えてもらった。

まずその教育姿勢がすごい。松陰は生徒に一方的に教え込むのではなく、共に学ぶ姿勢を大切にしていました。生徒に努力を要求するのではなく、率先垂範、自らが努力する。そこには「君も学べ、僕も学ぶ」という学ぶ同志としての師弟の信念が表れています。

そして長所をほめる。人の長所を瞬時に見抜き、そしてそのことを徹底的にほめて、生徒に自信をもたせました。近年「ほめること」の大切さはだいぶ言われていますけれど、江戸時代のあの時期に生徒を最大限尊敬し、そして育むという実践をされていたことがすごい。

松陰が生徒に教えた期間はたった2年間なんですね。正確には2年もたっていない。でもその間に、生徒たちに信じられないくらいの影響力を与え続けた。大教育者だと率直に思います。

その松陰、長崎に来てます。

何しに来たんかというと、勉強です。

松陰が生徒に伝えた言葉に「飛耳長目(ひじちょうもく)」という言葉があります。これはもともと中国に伝わる言葉なんですけど、簡単にいうと、「耳を遠くに傾け、遠くを見て、情報を収集し、生きていくための判断材料にしなさい」ということなんですね。じっとしていては、ダメだと。あらゆるところにアンテナを張って、情報を得ていくことが人生に勝利するための源泉だと。

松陰自身、自分の成長のために、あらゆる情報を得ようとした。黒船にのってペリーが日本に来たとき、松陰はその黒船に密航して外国にいって勉強しようと試みている。結局これは失敗するんですけど、何ちゅう勇気と行動力かと思います。名だたる学者がいると聞けば話を聞きに日本中を歩き回った。松陰は断言する。「学者になってはいけない。人は行動が第一である。

決して学者を非難してるんじゃない。松陰は勉強はこれでもか!っていう位しこたまやってるんですよ。だけどその学問を世にいかさなきゃ何の意味もないよ、って言うんですね。

1850年、黒船が来る3年前、松陰は長崎に勉強に来ました。当時21歳。

当時長崎には高島秋帆という有名な砲術家(大砲の扱いのプロ)の子、高島浅五郎がいました。彼の家に来ています↓
高島秋帆旧宅跡
↓松陰が上ったとされる階段です。
松陰が上った階段

上の写真の階段、松陰もここを駆け上がったのかなあと思いながら駆けあがってみる。私自身、もっと努力をせねばとひしひしと感じます。

松陰は平戸にも学びに行っています。長崎では平戸に来るのが第一の目的だったようですね。

平戸には当時、「山鹿流兵学」を極めた平戸藩の家臣や、「山鹿流兵学」の開祖である山鹿素行の後継者が住んでいました。「兵学」とは、戦術や戦略など戦争に必要な軍事学です。「兵学」にはいろいろな流派があって、「山鹿流」というのはその中の一流派なんですね。

松陰はその「山鹿流兵学」を主に学んでいたので、是非にでも平戸に来たかったのだと思います。

松陰は平戸に来て、「紙屋」という当時お茶や紙を扱っていた店に泊まっています↓

ここに50日間ほど滞在し、80冊ほどの本を読破しました。

山鹿素行の後継者が開いていた道場は積徳堂(せきとくどう)といい、平戸市岩の上町に跡が残っています。ここで松陰も学びました↓


吉田松陰は、平戸での滞在期間に、せまってくる外国からいかにして日本を守るかという観点を確立します。時代を動かした先覚者の思想が、ここ長崎県は平戸市で確立されたとするならば、大変に光栄だなあと県民として思います。

初任地の学校である生徒に尋ねられました。「先生、生きる意味って何ですか?」

「生きるとは一人で生きるということではない。あなたが死んだら親が、友達が、私が悲しむ。だから生きるとはみんなで生きることなんだ。」

そう言いました。考えた末、自分の思う真実を言いました。

松陰は「心は公なり」という。「私」のために生きるのではない。自分自身の利己心のために生きるのではない。国のため、他者のため、「公」のために生きるのだ、と。

誰かとつながっているから生きている。

松陰第一の弟子高杉晋作は、師匠の吉田松陰に、「私はどう死ねばよいですか?」と尋ねた。

松陰は答えた。「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」死んでも志が残るものであれば、いつでも死ねばよい。生きて何か大事を成せるならば、いつまでも生きてそれをやればよい。

「大事」となる自己の使命を果たしたとき、人は天寿をまっとうするのだと思う。それこそが「志が残る」ことであると思う。

未だ未来に使命のある人間は、大事を成さねばならない。そうであるならば、人は生きて大事を成さねばならない。何があろうと絶対に前に進まねばならない。

それが生きることであると思う。


高島秋帆旧宅跡  長崎市東小島町4 
吉田松陰宿泊紙屋跡  平戸市浦の町
積徳堂跡  平戸市岩の上町1146





スポンサーサイト

コメント

吉田松陰と平戸、検索で入場しました。
来週〜平戸を旅する長州人です。
参考になりました。
ありがとうございました。

  • くろすけ
  • 2012/03/16 09:44
トラックバック
この記事のトラックバックURL