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大村純忠〜日本最初のキリシタン大名〜

ときは戦国。血で血を争う戦いの時代。そこは実力の世界。身分が下の者が上の者を倒して覇権を握る(下剋上)。そんなことは当たり前。

そんな時代だから、戦国大名たちは生き抜くのに必死だ。勝つためにはまさに「猫の手も借りたい」状況。

そして「猫」ではなく「キリスト教」の手を借りた大名がいる。彼の名は「大村純忠」。

純忠は大村の戦国大名です。彼は大村氏の18代目ですが、血のつながった子孫ではないんですね。島原半島の戦国大名、有馬氏の子どもだったんですが、養子として大村氏を継ぎました。

養子ということで、彼を馬鹿にする家臣もいた。「養子の分際で・・・」何ともまあかわいそうなんですが、彼の人生は大村氏を継いでからすでに悲劇の始まりだった。

家臣たちに従わないヤツらがいるし、周りにはライバルの戦国大名がゴロゴロいる。何とか純忠がんばって領土を守っていくんですが、どうも心配だ。「う〜む。何かいい手はないものか?」

そこで純忠、最近うわさのキリスト教に目をつけます。当時がんばってキリスト教を日本に広めていた会派、「イエズス会」に接近した。そして大村純忠は自らキリスト教に入り、日本最初のキリシタン大名になりました。

しかし最初は、純忠はキリスト教を信じることが目的ではなかったといわれています。形だけ入って、本当の目的は貿易だったんです。キリスト教に入れば、イエズス会の信頼を得てガンガン貿易ができる。

貿易で力を得た純忠は、三城(さんじょう)を拠点にして、領土を拡大していきます。
↓三城跡。現在は長崎県忠霊塔が立っています。


この三城では、純忠は決死の戦いをおこないます。

キリスト教に入り貿易を拡大して力をつけていく純忠に、まわりの戦国大名は容赦なかった。結束したライバルたちは、1500あまりの大軍でこの三城を取り囲みます。「純忠を討ち取れ!!」

このとき城内には純忠ほか数人の家臣しか残っていなかった。しかし純忠「もうしばらくしたら援軍が来る!それまで持ちこたえよ!」必死に耐え抜いた純忠は、何とか持ちこたえ、この1500あまりの大軍を撤退に追い込みます。

こうして領土を守りぬいていった純忠は、1580年、長崎をイエズス会に寄進します。

もちろんこれもイエズス会の信用を得て貿易を活発におこなうためだったんですけど、純忠はキリスト教をまっこうから信じるようになっていきました。彼は、自分の一族や家臣と領民に、キリスト教を強制し、さらに領土にある神社やお寺をぶっ壊します。

こんな純忠を裏切る家臣達も増えていった。「殿にはついていけん!」

そしてヤツが長崎にやってくる。そう、豊臣秀吉

時代はもう秀吉の時代になった。全国支配目前。純忠は秀吉の配下に入ります。

しかし秀吉は長崎にきて、ガクゼンとする。「わしの日本が外国のものになっとるやないか!」そこはイエズス会のものになった長崎。さらに純忠が神社やお寺を破壊しまくっている現実を見る。「ここまできたらキリスト教は危険じゃのう・・・」怒りをおさえ、秀吉は長崎を出た。

純忠はその後息子大村喜前(よしあき)に後を継がせ、引退。ひっそりと坂口館で信仰の世界に入った。

そして1587年、病気で死にます。享年55歳。

↓坂口館跡。今は公園になっています。

↓「大村純忠終焉の居館跡」の石碑が立っています。

↓館の裏にはなかなか幻想的な空間が広がってます。


葬儀は盛大におこなわれたんですけど、現在大村純忠の墓はどこにあるか不明です。

純忠の死を聞いた秀吉、「そうか・・・ジャマ者が消えたか・・・。こりゃ〜ええ機会じゃ」

秀吉はバテレン追放令を発令、宣教師の国外追放を命令し、長崎を没収します。

この後、キリスト教は悲劇の歴史をたどることになります。

養子という後継から家臣の心をつかむことに苦心した純忠。さらに周囲の戦国大名のプレッシャーを考えると、キリスト教に入り信仰を貫こうとした純忠の気持ちがわかるような気がします。

しかし純忠の墓はなぜ場所が不明なのか?それについては大村編本教寺をご覧ください(^^)。


三城跡  大村市三城町
坂口館跡(大村純忠終焉の居館跡) 大村市荒瀬町坂口